「おや、ムハンマド。また来たのかい?」

ムハンマドと呼ばれた少年は、豊かな髭をたくわえた男に大きな声で挨拶をした。

「こんにちは、館長さん!今日も物語を聞きに来ました」

館長と呼ばれた男は笑顔で少年を迎えた。

「お入り、ムハンマド。ようこそ、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』へ」

ここは今から約1100年前のイラク、バグダッド。

当時、この地はユーラシア最大の都市として栄えていた。カリフ(※王または指導者の称号)と呼ばれるイスラム最高権威者のもと大きな争いもなく、人々は明るく豊かに暮らしていた。

チグリス・ユーフラテス両河が生んだ肥沃な土地は陸路・水路ともに他民族との交易を盛んにし、北東はイラン、北西はシリア、南西はメッカの方向、南東はチグリス川へと繋がり、その中心であるバグダッドは莫大な富を手に入れ、大いに繁栄した。この地が「世界の十字路」または「平和の都(マディーナト・アッサラーム)」と呼ばれるゆえんである。

交易が運ぶのは何も金や名声、食料や物だけではなかった。知識や文化も運んきた。

時のカリフはそこに目を付け、国の知識・文化レベルを上げるため、古今東西の文献をイスラムの言語であるアラビア語に翻訳することを国家事業とした。

その担い手となった場所が、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』である。
世界の知識の宝庫として、世界の大図書館として、何十万という蔵書が収蔵された。

そこに毎日のように通いつめる少年がいた。先ほどの少年、ムハンマドである。

「妹はすっかりシンドバッドの虜なんです。いっぱい笑うようになって、これも館長さんのおかげです」

ムハンマドはある日、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の扉を叩いた。

館長が事情をきくと、病で伏せている妹のために面白い物語を聞かせてやりたいと言う。自分が覚えた昔話や童話は底をつき、途方に暮れてしまった。そこで『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の噂を聞いた。

なんでも『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の住人たちに知らないものなどないらしい。彼らに聞けば、面白い物語を教えてくれるにちがいない。そう信じて、ムハンマドはここにやって来たのだ。

「さて、昨日はどこまで話したかな?」

館長は翻訳作業部屋にムハンマドを案内すると、腰を下ろした。ムハンマドもそれにならう。

「シンドバッドが深い谷底に落ちたところです」

作業部屋では『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の住人たちがそれぞれの翻訳作業に没頭していた。最初は彼らの邪魔になるのではないかとおそれたムハンマドだったが、自分など眼中にないことをすぐに知ることとなった。彼らの集中力は高く、こちらが息をのむほどの凄まじい速さで筆を走らせていた。もしかしたら、自分の存在すら気づいてないのかもしれない。

「おお、そうだったな。航海に出たシンドバッドは、上陸した無人島に置き去りにされてしまった。島には巨大な鳥がいて、その足に自分自身を結びつけて脱出するが、ついた先はダイアモンド鉱石で構成された峻険な山に囲まれた谷間だった…ここまでだったかな?」
「はい。とても気になるところで終わってしまって、妹に続きをせがまれて大変でした。僕もまだ続きを知らないんですから、話すことなんてできませんし…」

館長はふっと笑った。

「それは少し気の毒なことをしたね。でも、物語は昔から気になるところで終わり、次回に続くものなんだよ。その方が、より楽しみが増すだろう?」
「そうか、それもそうですね」

ムハンマドはにっこりした。しかし、その目は妹に負けないくらい輝いている。兄妹そろって好奇心旺盛なのだろう。館長は立派な髭を軽く整えると、口を開けた。

「さあ、続きを話そう。シンドバッドの落ちた谷底には大蛇がうようよしていた」

それを聞いてムハンマドの顔は青くなった。

「…大蛇って、蛇のことですか?」
「そうだよ。巨大な蛇だ。とても怖いだろう?だから、シンドバッドは逃げ場を探したんだ。すると、骨付き肉が落ちていた」
「骨付き肉?」
「…ムハンマドは骨付き肉を知らないのかい?」

頷くムハンマドに館長は咳払いをして訂正した。

「骨付き肉ではないな。確か…あれはそう、切り落とされた羊の生肉だったな」

ムハンマドの納得した様子に安心して館長は続けた。

「それは、こういう険しい場所でダイアモンドを採取するための仕掛けだったんだよ。付近の住人は羊の生肉を崖から落として鉱石を肉に食い込ませ、それを巨大な鳥たちが運び上げるのを待って奪い、肉からダイアモンドを取り出したんだ」
「頭がいいなあ。ダイヤモンドってきれいな石ですよね?」
「そうだよ。もっとも固い鉱石と言われている」

妹に見せてやりたい、ムハンマドは自分も見たことのない石に思いを馳せた。

「話を戻そう。シンドバッドは落ちているダイアモンドを掻き集めると、肉に自分自身を縛りつけた」
「え?まさかシンドバッドは…」
「そう、巨大な鳥がその肉を、取りにくるのを待ったんだね。やがて鳥が飛んできた…」

館長の絶妙の間に、ムハンマドの鼓動は高鳴った。ごくりと息をのむ音がはっきりと聞こえてくる。

「でも、恐怖は一瞬だった。気づけば、シンドバッドは宙に浮いていたんだ。彼は崖にいた住人たちの手を借りて、鳥の手を逃れ、こうして脱出を果たしたんだ。もちろん、住人たちにお礼としてダイヤモンドを渡したよ。でも、自分の分もちゃっかりポケットにしまっていただろうね」

手に汗を握っていたムハンマドは大きく息を吐いた。それから、拍手をして感動を伝えた。

「シンドバッドは、すごいなあ!いつも絶体絶命の危機を乗り越えて、笑っているんだから!!」

その感想に、館長は満足げに微笑んだ。

「さあ、今日はここまでだよ。家に帰って妹に聞かせてやるといい。続きはまた来た時にしよう」

ムハンマドはまた大きな声で挨拶をすると、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』を元気よく後にした。

ムハンマドを見送った館長が作業部屋に戻ると、翻訳に没頭していた住人たちが急に筆を止め、顔を上げた。

「帰ったな」
「帰りましたね」
「行ったようだな」
「行っちゃいましたね」

そして住人たちは同時に、安堵のため息をもらした。

「だから、言ったじゃないですか!骨付き肉なんて、最近の若い子は知らないって!」

住人の中でも一番年の若い男が声をあげた。

「何を言うんだ!若いたって、お前は30代だろう?肉っていったら、骨付き肉!あれは、先祖代々わしらのロマンだったんじゃ!」

一番年長者である老人も負けじと声を張り上げ、反論した。

「何がロマンだ!イスラムは肉がほとんど禁止じゃないか。とっさに館長が僕らのよく食べる羊の肉にかえてくれたけど、超不自然でしたね!僕はムハンマドにあやしまれないか、ヒヤヒヤしっぱなしでしたよ…」

老人もそこは素直に反省をしているようで、小さい体をより小さくさせた。そこをとりなすのが館長の役目だった。

「まあまあ、スリリングなのは面白い物語の醍醐味だろう?」
「語り部がスリリングで、どうするんですかっ!?」

30代男の容赦ないつっこみに、館長も他の翻訳者たちも、愉快そうに笑った。

「いいじゃないか。ムハンマドのおかげで、こうして私たちも笑顔になれるんだから」

本当は物語なんて、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』には、まだ存在しない。彼らは膨大な数の文献、主に哲学や医学、天文学などと格闘していたのである。

しかし、思いつめた少年が訪れたあの日、その事情をきいた住人たちは、とっさに頷いてしまった。「面白い物語が、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』にある」と。

「私はよく覚えているよ。私がムハンマドの事情をここできいていると、みんな鼻をすすったり、目頭をおさえたり、無言の圧力をかけてきてくれたことを…」

恥ずかしそうに頭を下げる住人たちに、館長は面白がって笑顔で続けた。

「それに、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の住人たちに知らないものはないと言われたら、期待にこたえないわけにはいかない。そうだろう?」

館長の絶妙の間は、ここでも健在だった。

「さあ、心優しい少年のために物語の続きを一緒に考えてくれ。みんな一緒なら、より素敵な物語ができるだろう」

住人たちは観念したように笑った。
今夜も残業になるな。まあ、それも悪くないか、と思いながら…。

長く語り継がれる『アラビアンナイト(千一夜物語)』はここバクダッドで生まれたが、著者は不明である。

もしかしたら、それは『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』の住人たちが、一人の少年のために創り上げた物語だったのかもしれない。

少年は明日もきっと、住人たちに笑顔で迎えられるだろう。

「ようこそ、『知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)』へ」、と―。


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=影響を受けた作品のご紹介=
ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。

★ NHKスペシャル『文明の道⑥バグダッド大いなる知恵の都』×the guitar plus me『highway through desert』★

私が書く物語は、半分フィクション感覚でお読みになって下さると嬉しいです^^「知恵の館」を書きたくて書けなくて今週悶々としていました。本当はもう一つ結末があったんですけど、それはまた今度書き直すか、新しい物語にできたらと思います。円城都市についても書きたかったしなあ。

けいさんリクエストの友情モノを目指したつもりですが、微妙にそれたような気もしなくもないです…大丈夫かな?

① NHKスペシャル『文明の道⑥バグダッド大いなる知恵の都』
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2003/1012/
【第63夜】往復書簡と今回ので、初めて世界史に挑戦しましたが、どうだったでしょうか?私は知らない歴史だったんですけど、世界史の授業ではふれるところだったのかな?ちょっとふざけすぎたかも。

② the guitar plus me『highway through desert』
http://www.youtube.com/watch?v=a93AVCDfqn0
前にUPした【第63夜】往復書簡 も彼らを聞いていたのですが、なんとなく今回もこれを聞いてました。優しい物語を書きたくなる音楽なのかな?

良ければ、こちらもよろしくお願いします。ラストが少し違います。
【第68夜】 知恵の館(バイト・アル=ヒクマ) もう一つの結末
http://short2story.blog.fc2.com/blog-entry-74.html

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コメント

初めまして、こんにちは。

とても面白かったです。
歴史を扱うのは、知識が必要ですよね。
凄く引き込まれ、鳥肌が立ちました(笑)
こういうのを読むと、その歴史をもっと知りたくなります。

それから、リンクを張らせていただいてもよろしいでしょうか?

とても楽しませていただきました、ありがとうございました。
スカイ│URL│10/13 09:46│編集

ぜーんぜん大丈夫です!
リクエストにお答えくださり、ありがとうございます!^^ 
歳の差の友情かな。

1100年前なんて、ロマン過ぎて・・・
何でも手足でなされていたのですよね。
今と全然違う世界をチラ見してみたいものです。

いやいや、物語のいわれの話かと思いきや。
みんなが一人のことを思いやるお話。
そして、みんなのアイデアがみんなの笑顔を作るわけですよ。ね。
一人では成しえないみんなの力は偉大ですね。

そうやって、いろいろなことが語り継がれて歴史として残っていくと思うと・・・やっぱりロマンだなあ(遠い目)
けい│URL│10/13 10:08│編集
Re: タイトルなし
>スカイさん

コメントありがとうございます!

初めまして。こんばんは。

> とても面白かったです。歴史を扱うのは、知識が必要ですよね。凄く引き込まれ、鳥肌が立ちました(笑)
こういうのを読むと、その歴史をもっと知りたくなります。

ありがとうございます!歴史って面白いですよね。そう言って頂けて、とても嬉しいです^^しかも鳥肌もまでも頂けるとは、ありがたいお言葉で恐縮です。><

> それから、リンクを張らせていただいてもよろしいでしょうか?

ありがとうございます。リンクの件、了解です。
良ければ、私もスカイさんのブログのリンクを張らせていただいてもいいでしょうか?
私もぜひスカイさんのブログ、お邪魔させて下さい^^
rurubu1001│URL│10/14 01:39│編集
Re: タイトルなし
けいさん

いつも本当にありがとうございます!

> ぜーんぜん大丈夫です!リクエストにお答えくださり、ありがとうございます!^^ 歳の差の友情かな。

良かった~。ほ。そう言って頂けて、とても嬉しいです^^
年の差の友情って、私、結構好きなんです。それが出てしまったのかな。

> いやいや、物語のいわれの話かと思いきや。みんなが一人のことを思いやるお話。そして、みんなのアイデアがみんなの笑顔を作るわけですよ。ね。一人では成しえないみんなの力は偉大ですね。

みんなの力が集まるって難しいけど、成しえた時の感動も大きいからいいですよね。
実は結末がもう一つありまして、それはもう少し続き、物語のいわれもわかるというもので。だから、ご指摘にびっくり(笑)。

> そうやって、いろいろなことが語り継がれて歴史として残っていくと思うと・・・やっぱりロマンだなあ(遠い目)

歴史はロマンですよね~^^(遠い目)またできたら、友情モノや歴史モノ書きたいと思います。
rurubu1001│URL│10/14 01:50│編集

こんばんは。

それではリンク、貼らせていただきますね。
ありがとうございます。
私のブログのリンクも貼ってくださるのですか!
よろしくお願いいたします。

毎日書いていらっしゃるのですね!
尊敬します……!

これからよろしくお願いいたします。
スカイ│URL│10/14 17:39│編集
Re: タイトルなし
スカイさん

ありがとうございます。

それではリンク、早速貼らせていただきますね。
こちらこそ、これからよろしくお願いいたします^^
rurubu1001│URL│10/14 20:23│編集
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