――なあ、信じるか?

雨の季節特有の空気は慣れるまでに時間がかかる。むせ返る。何度も咳き込んでしまう。それに気を取られていると、部屋の窓辺にはいつも小さな虹ができていた。こぢんまりとしたアーチに手を伸ばして、そっと触れてみる。七色に染まることのない自分の指先に胸が痛んだ。それからあっさりと虹は消えていく。哀しい余韻だけが残る。

――消えない虹が欲しいのか? 見ててごらん。

やがて俺は消えない虹を手に入れた。そして満足してしまった。人は満足すると、ほっとして、すぐ忘れてしまう。そういう生き物だ。別にそれは悪いことじゃない。俺もそうだった。ただ、良くないのは一度忘れることを覚えると癖になってしまうことだ。そして知らないうちに、たくさんのことを忘れ始める。失い始める。俺は消えない虹も、それをくれた人さえも、いつの間にか失ってしまっていた。

      *

――なあ、信じるか?

小さいころ、近所にテツオという美大生がいた。有名芸大に在籍していて、おそろしく絵のうまい奴だった。どうやら学生時代から新進気鋭の画家として有望視されていたらしい。人柄はよくいる芸術家とは違って親しみやすく、近所の評判も高かった。近所の子どもたちはみんな「テッちゃん」と、慕っていたものだ。昔からどこか大人びて、感情を表に出さない子どもだった俺は、母親に心配されて、テツオの家に絵を習いに行くことになった。おおかた子育ての本か何かで、絵を描けば感情表現が豊かになるとでも書いてあり、鵜呑みにしたのだろう。
 でも、テツオは無理に絵を描かせるということはしなかった。一緒にお菓子を食べたり、話をしたり、遊んだりするだけ。今思うと、テツオがカウンセラーの役をかってでてくれたのかもしれない。

「マコトは何が好き?」
「好きなもの?」
「そうだよ。何でも言いな」

テツオはいつも、にこにこしていた。笑顔がお面のように張り付いてしまったものではなく、人柄の良さが自然と滲み出た穏やかなものだった。

「チョコ…かな」
「チョコだな。ほら!」

そう言って握っていた手のひらをぱっと開いて、チロルチョコを出す。簡単な手品をして、俺を驚かせてくれた。

「すごい。どうして、チョコってわかったの?」
「お前が、信じているからさ」
「何を?」
「チョコと俺を、さ」

なぜか俺はチョコとテツオを天秤にかけた図を想像して笑った。テツオは俺が笑うと、もっとにこにこする。そして、マコトの笑顔は光っていていい、と誉めてくれた。テツオに言われて、いつしか俺は家族の前でもよく笑うようになっていた。母親は涙ぐみ、テツオの絵画教室のおかげだと、それこそ信じて疑わなかった。

ある雨の日のことだ。

「消えない虹が欲しいんだ」

俺はそう呟くと、テツオはにこにこと身をのりだした。

「消えない虹が欲しいのか?」

俺は頷いた。窓辺の虹の話しをする。雨が降ると決まって部屋の窓辺に小さな虹ができること。そしてそれに触れると、すぐ消えてしまうこと…。

「マコトはどうしても手に入れられないものがあるのを知っているんだね。お前は聡いから、人より先にそういうのに気づいてしまったんだな。でも、それは哀しいだけじゃない。確かに哀しいけど、それだけじゃないんだ」
「どういうこと?」
「力を生み出すんだよ」

理解ができず、俺は首をかしげた。

「見ててごらん」

そう言って、テツオは目の前で絵を描き始めた。テツオが絵を描くところを見たのは、それが初めてだった。驚いた。いつもにこにこしているテツオが変化したのだ。じっとスケッチブックを睨み、ものすごいスピードで絵筆を操る。パレットから色彩が飛び出す。胸躍るような七色。テツオは一度もあの虹を見たことがないはずなのに、もっとリアルに描き出していた。あっという間に、白い紙の上に存在していた。俺だけの、決して消えることのない虹が――。

「これが力を生み出すってことだよ。マコトと俺の力が生み出したんだ」

すっかり、にこにこ顔のいつものテツオに戻っていた。

「僕も?描いたのは、テッちゃんだよ?」
「見る側と描く側のお互いが信じないとダメなんだ。マコトが信じないと、これは虹ですらないんだよ」
「信じる…?」
「そうだ。お互いが信じないとね、これは何ものでもないんだ」

テツオはよく「信じる」という言葉を使っていた。信じれば、望んだものが手に入るということをよく言っていた。テツオは知っていたのだろう。自分の絵は誰かの思い込みがあってこそ望まれた絵になる。価値のある、評価される絵になることを。テツオは絵の中で得意の手品をしていただけなのかもしれない。大好きな絵も、もしかしたら彼にとっては小手先のものでしかなかった。テツオはそれで巧妙に絵の才能さえも創り出していたのかもしれない。

「なあ、マコトは信じるか?」

それでも俺はテツオが好きだった。

「僕は、信じるよ」

テツオも俺を信じてくれているのがわかったから。テツオは関係が対等だった。子どもに対して、子ども扱いしない。きちんと真剣に向き合ってくれる。感受性の鋭い子どもだからこそ、目に映ってしまう美しくはない世界をテツオはしっかりと見守ってくれた。その先にある大切な何かに導いてくれた。

でも、テツオがしてくれたようなことを俺はテツオにしてやることができたのだろうか。きっとできていなかったのだろう。だから、俺はいつの間にかテツオを失ってしまったのだ。

あの虹の絵も、今はもうどこにあるのかわからないのだから。


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コメント

テツオどこに行った・・・
マコッチは幼い頃シャイ(?)だったのか。

信じる、という力は大きいですよね。
信じないものには力が無いどころか、存在もない。

忘れた何かを思い出したときに、虹の絵が見つかるのでしょうか。
けい│URL│09/09 19:22│編集
Re: タイトルなし
けいさん

いつも本当にありがとうございます!

> テツオどこに行った・・・マコッチは幼い頃シャイ(?)だったのか。

マコッチの小さい時の話です。やっぱり短編に切り取るのは難しいなあ。テツオは彼のキーパーソンというか…。また出てくると思います。

> 信じる、という力は大きいですよね。信じないものには力が無いどころか、存在もない。忘れた何かを思い出したときに、虹の絵が見つかるのでしょうか。

信じるって難しいですよね。虹の絵は果たして見つかるのでしょうか…。
rurubu1001│URL│09/10 00:05│編集
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