いつから声を出さずになくことを覚えたのだろう。

私は居場所というものを探していたのかもしれない。自分にはどこにも居場所がないとバカみたく思っていたのかもしれない。

『海はみんなの故郷です』

それをきいた時、強く心をひかれたのはそう思っていたせいだろうか。遅い夕飯を食べていた私は思わず、手を止めた。

『私たちは昔、海に住んでいて、いつしか陸を見つけて土を踏み、人となったのです』

海のドキュメンタリーと銘打って放送していた番組。今までテレビをぼーっと眺めていただけなのに、いつの間にかひきつけられていた。

…海か。

テレビに流れる映像はエメラルドグリーンの日本ではあまり考えられないようなきれいな海。なーんて、日本の海を全部見てきたわけじゃないから何とも言えないけど。

――おいで。

あれは幻聴だったのだろうか?確かにそう聞こえたような気がする。誰もいない食卓にその声は無邪気に響いた。

――待ってるから。

それっきりその声は聞こえなくなって、私はまた一人になった。いくら大きくて広い家でも、誰もいないかったら、すぐに淋しさで埋め尽くされてしまう。ぽつんと私だけ取り残された気がする。

いたたまれなくなって、私は鍵と財布をつかんで家を飛び出した。


   *


昼のうだるような真夏の暑さと打って変わって、夜は過ごしやすい涼やかな風が吹いていた。どこかの家の風鈴がちりんちりんと鳴っている。それに耳を澄ませ、心を落ちつかせようとつとめた。

夜は真っ暗な闇で全てをのみこんでくれるからいい。あの家も、私自身も、もちろんみんなも、簡単にのみこんでくれる。それはどこかホッとすることができた。結局みんなちっぽけでなんの力もないことを教えてくれる。

なんか疲れたな、と思った。不意に何もかもが嫌になった。時々こんな感情に襲われる。そんな自分も嫌だ。

私をとりまく環境も私自身も、もう、うんざりだった。手を伸ばしても誰にも気づかれない。もがいてもがいて、ただ沈んでいくのを静かに待つことしかできないのだ。

重いため息と同時に涙が出る。いつから声を出さずに泣くことを覚えたのだろう。自分の中の生きる活力みたいなものが日に日に衰えているのがわかる。

……全然ダメだ。

その時だった。突然泣き叫ぶ女の人の声が聞こえてきた。

あまりにも突然すぎて自分の嗚咽かと思い、思わず手で口を押えたほどだ。一体どこからだと思って、あたりを見渡すと、少し先の電柱の下で、うずくまっている人影があった。

引き返そうかと思った。変なことに巻き込まれるなんてまっぴらだ。でも、彼女は私の存在に気付いたのか、急に泣き止み、食い入るような、すがるような瞳で、

「……ねえ」

と、声をかけてきた。しわがれた低い声にもかかわらず、闇の中で不思議とはっきりそれは聞こえた。私は動けず、次に続く言葉を待った。

「赤の他人に…いきなりものを頼んでなんだけど…」

さっきまで大声を出して泣いていた人には思えない。なぜか冷静さも感じられる声。

「…私を海に連れてってくれない?」


   *


彼女は水魚(すいぎょ)と名乗った。本当は『水魚』と書いて、『みお』と読むらしいけど、まわりから、なぜか『すいぎょ』と呼ばれているそうだ。年は二十五で平凡なOLをしているという。「そんな名前だから海に行くの?」そうたずねる私に彼女は幸薄そうな口元で小さく笑った。

とりあえず、私は彼女を家に連れて行くことにした。

主だけではない誰かを久しぶりに招いた家はどこかあたたかだった。玄関の明かりをつけて振り返って彼女を見る。うさぎのような真っ赤な目が痛々しい。黒いワンピースの上に真珠のネックレスをしているのを見て、葬式帰りだとわかった。

とにかく少しでも気分をすっきりしてもらいたくて、シャワーをすすめた。

彼女は大人しく従って、タオルと着替えを受け取る。そして、未だ抜け切れない夜の闇の色を含んだ声で「ありがとう」と言った。

彼女がシャワーを浴びている間、私は深夜のバラエティ番組を意味もなく、眺めていた。

「シャワー、どうもありがとう」

バスルームからリビングにやってきた水魚は、まだ目は赤いもののどこか生気を取り戻したようだった。

「何か食べる?それともお茶?」

私の問いに水魚はお茶といった。冷蔵庫から麦茶をさぐる間、彼女は面白くもないバラエティを私の代わりに引き継いでくれた。

「西澤さんは学生?」
「え?そうですけど…」

水魚がいきなり聞いてきて、戸惑った。なんで私の名前を知っているのだろう?彼女は考えを呼んだのか、

「家の表札、西澤って書いてあった」

私はそうかと軽く笑い、「高校生です」と告げた。私は彼女に氷の入った麦茶を渡した。

「私も数年前は学生してた。今は夏休み?」
「…はい」

愛おしそうな目を向ける水魚が私の心をとらえた。湯上りの女の人はすごくきれいだと思う。濡れそぼった髪が顔に軽く張り付く感じが、どこか艶っぽくて甘い。そして、どこか憂いさが見え隠れする彼女に、私は見とれてしまうのだ。

……大人の女の人。水魚は突如あらわれた『女性』だった。

「今日ね、すごく仲の良かった友人のお葬式だったの」

髪を軽くかきあげ、優しく語る。私はテレビのボリュームを少しだけ下げた。

「親友って言える子の」

水魚はどこか遠い目をして語りだした。

「本当にいい子で、良く笑ってね。お日様みたいだった。まわりから愛される子で、私は彼女が大好きだった」

私は静かに彼女の話に耳を傾けていた。

「大学の時はふたりしてバカばっかりやってたの。それがムチャクチャ楽しかった。夜通しお酒飲んで語り合ったり、同じ男を取り合ったり、授業サボって遊んだり…。そんなことを繰り返してたわ」

水魚はいつの間にか涙を流していたけど、構わず、続けた。

「卒業してから、全然会ってなかった。事故だって。車とぶつかって即死。あっけなく死んじゃったわ」

水魚はけらけら笑ってから、麦茶を飲んだ。そして、目を伏せた。

大切な人の死。彼女はそれを受け止めるのに必死だった。沈黙が重い。ただ、テレビの音だけがむなしく流れる。私は口を開けた。

「…でも、どうして海?」

彼女は顔を上げて、その問いにこう答えた。

「夢。夢を見たの。大学の時、海に行ってね。確かどっちかが失恋して励ますためにいったと思うんだけど。その子が『海に帰る』っていったことがあったの。『私が死んだら、海に帰るから』って。ずっと忘れてたんだけど、夢を見て思い出した」

私はさっきのドキュメンタリーを思い出した。

『海はみんなの故郷です』

――おいで。

もしかしたら、幻聴ではなかったのかもしれない。

――待ってるから。

「帰りましょうか?」
「え?」

水魚は私の言葉の意図をつかめないらしく、眉を寄せた。

「私たちも帰りましょう」

私はにっこりと微笑んだ。

「海へ」


   *

 
 いつからあの家は誰もいなくなってしまったのだろう。

ちょっと前まで私には『家族』というものが存在していたはずなのに。

私には弟がいた。九つ離れたかわいい男の子が。でも、彼は病弱でいつも顔は青白く、痩せっぽちだった。それはまるで隅っこで大人しく咲こうとする儚げな花みたいだった。

父や母、そして私は、弟がいつ医者から死の宣告を受けるかをびくびくしながら暮らしていた。でも、うちは明るかった。弟の前で暗い顔をするわけにはいかないと、暗黙の了解のように私たちはみんな笑っていたのだ。でも、いつからかどこか家にまとわりつく死の匂いが私たちの気を滅入らせていたのも事実だ。父も母もいつも死と隣り合わせでいる弟から、あの家から、本当は離れたくて仕方がなかったのだ。

そして、唯一私たち家族を繋ぎ止めていた弟がこの世を去ると、途端に私たちはダメになってしまった。父は他の女の人のところへ。母はどこかの新興宗教に走りそうになったけど、どうにか踏みとどまって、今は気を紛らわせようと友達と旅行に行っている。

もちろん母は私も誘ってくれた。でも、私は断ったのだ。予備校の夏期補習を理由に。でも、そんなの行く気なんてなかった。私はただ、あの家を誰もいない状態にしたくなかったのだ。弟を一人にしたくなかった。いくらこの世からいなくなっても、彼は私の弟で、帰るところは、きっとあそこしかないのだから…。


   *

 
 水魚が免許を持っていてくれて良かった。

うちにある車で深夜の高速を駆け抜け、夜明け前には小さな海岸に着いた。

「共鳴しあっちゃったのかしらね、私たち」

水魚が車から出て鍵を閉めた。

「見つけてくれてありがとう」

水魚がそう言ったので、私は笑った。

「声をかけてくれてありがとう」

私も彼女にそう言った。彼女も笑った。

私たちは浜辺をゆっくりと歩きだした。夏なのに、夜明け前の海岸は肌寒かった。私たちは寄り添うようにぴったりとくっついて歩いた。人のぬくもりは生きている証拠だと私は胸を撫で下ろした。水魚もそう感じていたのかもしれない。

海は穏やかな波音に包まれながら、夜明けを迎えようとしていた。私たちもやがて視界に入ってきた防波堤から夜明けを迎えることにした。きっとあそこからなら朝日が良く見える。

防波堤に上り、海を見渡した。私たちの故郷は、少しずつ夜明けの色に染まっていく。私は真っ直ぐ前をみすえた。目の前に広がるのは、今日という光。始まりも終わりも、そんなものをすべてを飛び越えてくれるような、神々しい光だった。

水魚がふと呟いた。

「…もしかして、これを見せたかったのかな?」
「え?」
「悔しいけど、失ってみて初めて気付くわ。色んなものの重みとか。自分にどれだけ影響を与えてくれていたのか。…どこかで私は履き違えていたのかもしれない。生きていることは、決して当たり前なんかじゃないんだわ」

水魚の言う意味がわかるような気がした。

生きていることは、決して当たり前なんかじゃない。生きて死んでいくことが、当たり前なのだ。

弟も水魚の友達も当たり前のことが起こったまでだ。それがただ、早すぎただけ。私たちはそこに戸惑ってしまったのだ。

私の家族はどうなってしまうのだろう…。

「別にそれに縛られる必要はないと思う。個人を見ればあなたはあなただもの。あなたの好きなようにすればいいと思うわ」
「そうかな?」
「そうよ」

それを聞いて、なぜか楽に息が吸えるようになった気がした。自分から息苦しくする必要はないんだよ。

「ただ、投げやりになってはダメ。私はよくなるけどね」

水魚は腰に手をあてて自慢げに言った。私たちは笑いあった。その笑い声は朝日と同じくらい明るい色をしている。

私は大きく深呼吸をした。体内に一気に血液が駆け巡るのがわかる。やっと私の心と体は正常に戻ったのかもしれない。

「大丈夫?」

水魚が私に声をかける。もう彼女の瞳に暗い影はさしていなかった。きっと私もそうなのだろう。

「うん。お腹すいた」

水魚が笑った。

「じゃあ、朝食にしましょう」
「確か近くにファミレスがあったよね?そこで食べようよ」

人間はたくましいと思う。どんなに辛くても、泣くだけ泣いても、お腹はすくし、笑うことができる。

父と母もばらばらでもいい。笑うことができるなら。どこかでそうしているなら、私はいい。それでいいと思う。

「ほら、行こう」

水魚が私を呼ぶ。呼んでくれる人がいる。居場所なんて本当はどこにでもあったのだ。なかったのは、そこにあるはずの心。私自身の心だ―。

それから水魚とこれでもかというくらいファミレスで食べまくり、家に戻って爆睡した。目覚めた時、もう彼女はいなくなっていたけど、リビングのテーブルの上に彼女らしい書置きがあった。そこにはこう記されていた。

『また、来ます。ご馳走を作りに』―と。

私はまだ一人であの家にいるけど、彼女の訪問を心から楽しみにしている。




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=影響を受けた作品のご紹介=

ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。

★よしもとばなな「白河夜船/サンクチュアリ」×白鳥マイカ「red clover/Shelter」★

高校時代に授業中に手書きでノートに書いていた物語を発見!今回PCに急いで打ち込んだので、誤字脱字、古臭い言い回しなどあるかもしれません(後で訂正しますので)。良ければ、雰囲気だけでもお先にどうぞ。当時、どうも私はやたら海・涙・人魚・故郷っていう題材で物語を書いていたようです。(なぜ?)それにしても、手書きってアルバムを見ているようなこそばゆい気分だ。しばらく手書きの物語をPC入力・保存という若干手間な作業をすることになりそう。そのため時間がかかり、UPする頻度が落ちるかもしれません。良ければ、気長にお付き合い下さい。

① よしもとばなな
「白河夜船」
http://www.amazon.co.jp/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E5%A4%9C%E8%88%B9-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E6%9C%AC-%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%AA/dp/4101359172
「サンクチュアリ」
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%86%E3%81%9F%E3%81%8B%E3%81%9F-%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AA-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%90%89%E6%9C%AC-%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%81%AA/dp/4101359164
学生時代、ばなな作品にハマり、影響を受けて書いた物語だと思います。なんか水魚という名前とかそのような気がする。普段の私は割と普通の名前が好きみたいだし。最近のものより、私は初期作品の方が読んでいるかもしれません。「キッチン(私は同時収録の「ムーンライト・シャドウ」も好き)」、「哀しい予感」とか。あと、ばなな作品は、出てくる食べ物がやたらとおいしそうなんですよね。それもなんかいいなあと思います。

②  白鳥マイカ
「red clover」
http://nicotter.net/watch/sm8933851
「Shelter」
http://www.youtube.com/watch?v=Oz0by-lAtQM
「Someday」
http://www.dailymotion.com/video/x3b0we_someday-%E7%99%BD%E9%B3%A5%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AB_music
「線」
http://nicotter.net/watch/sm8936337
書いていた頃に聞いていた音楽を忘れたので、今回入力作業をしながら聞いてた音楽を。最初はNorah Jonesを聞いていたんです(「マイ・ブルーベリー・ナイツ」みたいなロードムービー的な物語になるかと思って。でも、そういうわけでもなかった…)。個人的に気になる日本人アーティストさんを。白鳥マイカさんは「ラヴァーズ・キス」(吉田秋生さん原作漫画)という映画で出会いました。その映画で流れていた音楽です。なんかきれいな歌声が心地よくて、BGMに最適だったんです。


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コメント

素敵な出逢いですね。
それが一回きりで終わるのではなく、これからも続くような余韻がとても良いです。

似たような経験を持つと、一緒にいる時間がすごく近づく、というのに共感します。

てか、rurubuさん、これを高校時代に書いていらしたとは。
スーパーです(イミフ)。授業中に何してたんですか。ぷぷぷ。

ノートってことは、他にもいくつもあるんですよね。
うわあ。アナログに感謝。
アップされるのを楽しみにしています^^
けい│URL│08/01 21:36│編集
Re: タイトルなし
>けいさん

いつも本当にありがとうございます!

ヘンテコなところはちょっと直したりしますね^^

私、授業中何してたんですかね。先生に申し訳なく…。
今頃何言ってるんだかって感じですが。
ややや、全然スーパーじゃないですよ。
もっと精進せねば…押忍!
rurubu1001│URL│08/02 15:10│編集

お久しぶりです。
人との繋がりは生きていく上で必要なんだなと思いました。
水魚さんが生きる希望を持てて良かったです。
ネリム│URL│11/07 07:59│編集
ネリム さんへ
コメントありがとうございます!

> お久しぶりです。人との繋がりは生きていく上で必要なんだなと思いました。水魚さんが生きる希望を持てて良かったです。

お久しぶりです。こちらの物語にコメント頂き、ありがとうございます。少し暗めの話ですが、そんなふうに言って頂けて、とても嬉しいです。人とのつながりって本当に大事ですよね!生きることの糧になりますしね!^^
rurubu1001│URL│11/08 02:52│編集
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