敗戦後、日本に降り立った占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの残した謎の言葉がある。

『ジェネラル・イシイはどこにいるか?』

   *

アキモトが東大医学部血清学教室から勤務先を満州の研究施設に変えたのは、ただ家族と離れたくなかったからだ。

戦時中は誰もが「お国のために」と命をかけて戦っていた。男子は赤紙がきたら兵士として戦地にいくのは当然だったし、女子や子どもは兵器や航空機の工場などで厳しい労働を強いられた。これまで軍役を免れていた医学者たちも「科学者の戦争動員令」の発令により、例外ではなくなってしまった。

アキモトには妻と小さい子どもがいた。彼らを残して戦地に向かうことはなるべく避けたかった。だから満州行きの話が来た時、飛びついたのかもしれない。日本を離れることになるが、家族も同行することができる。生活環境も申し分ない。しかも研究も続けられるというではないか。断る理由などなかった。

しかし、満州に訪れた彼が巨大な研究施設を前に絶望したのはなぜろう。

『お前は何も知らずに来たんだな』

先に赴任していた友人の暗い表情のせいか、

『今日、俺はマルタを三本倒したよ』

嬉々とした様子で自分の仕事を語っていた同僚のせいか、

『よく来たね、アキモト君』

身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた、ある人物に出会ったせいか-。

   *

巨大な研究施設だった。ロの字型に立てられた研究棟を中心に近くには鉄道、二十以上もある官舎、大講堂、プール、庭園、浴場、運動場、神社などもあり、そこに医学者や軍人が三千人ほど働いていた。生活環境においては申し分なく、これなら妻も安心するだろうとアキモトは思った。そこはまるで築きあげられた一大都市のようだった。

研究施設の表向きの仕事は防疫給水を行うというものだった。兵士の感染症予防のための衛生的な給水体制の研究。感染症対策ならば、アキモトのこれまでの研究がおおいに生かせるに違いない。自分の研究は人々を救うものだと彼は信じて疑わなかった。

施設にまだ慣れないアキモトがふと研究棟の廊下の窓から内庭を見下ろすと、ベンチに座っているロシア人女性に目がいった。彼女は子どもを大事そうに抱えている。

なぜこんなところに彼らはいるのだろう?捕虜だろうか?

「もしかして、アキモトじゃないか?」

友人と再会したのはそんな時だ。しかし、アキモトは一瞬彼が誰だかわからなかった。高校時代の同級生は昔の面影をなくし、生気をそいだ顔をしていた。

「アキモト、お前もとんでもないところに来てしまったな」
「とんでもないところ?」
「…知らないのか?そうか。お前は何も知らずに来たんだな」

アキモトは少し怪訝な顔をしたが、友人は何も言わない。アキモトは気まずい雰囲気に話題を変えようと、窓の外を指差した。

「なあ、あそこにいるのはロシア人の母子(おやこ)だろう?どうしてこんなところにいるんだ?」

その質問にも友人はなぜか答えなかった。黙り込み、よりいっそう暗い表情になる。

その時、数人の医学者たちが彼らの横を通り過ぎて行った。

「なあ、今日はマルタを何本倒した?」
「今日、俺はマルタを三本倒したよ」
「俺の負けか。俺は二本だった」

彼らの奇妙な会話にアキモトは首をかしげた。マルタとは一体何だ。彼らは木を倒す作業でもしていたのだろうか?これだけ大きい研究施設だ。アキモトの知らない仕事があるのかもしれない。

そんなアキモトの様子を察したのか、友人は重い口をようやく開いた。

「アキモト、本当にお前は何も知らずに来たんだな」

次の言葉にアキモトは耳を疑った。

「マルタとは、人体実験用の捕虜のことだ」

   *

マッカーサーの探している男の行方は依然としてつかめなかった。

満州に存在していたと言われる謎の極秘部隊。敗戦色濃厚だった当時の日本は国際法に背くことで戦争を続けようとしていた。細菌やウイルス、それらが作り出す毒素で人間を戦闘不能にし、死に追いやる生物化学兵器の研究、実践。捕虜を人体実験の道具とし、大きな成果をあげた。

 “ 731部隊 ” 

マッカーサーは、その部隊を作った男を探していた。

   *

「よく来たね、アキモト君」

声がして振り返ると、そこには日本人らしかぬ背の高い男が立っていた。

「…イシイ軍医中将」
「アキモト君、ここにはもう慣れたかね?」

アキモトは何も答えなかった。イシイ軍医中将は口の端だけで笑った。

「医学者は自尊心が高い。私もだがね」

アキモトは視線を窓の外に戻し、語りだした。

「…少し前、ここから見える内庭のベンチに、ロシア人の母子が座っていたんです。イシイ軍医中将はご存知ですか?」
「いや、知らないな」
「姿がないということは、彼らはおそらくこの世にはいないのでしょう」
「…君は何を言いたいのかな?」

アキモトはイシイ軍医中将を見つめた。

「言いたいことも、言えることも、何もありませんよ。もう人を救う医学者でない私に」

イシイ軍医中将は声を上げて笑った。

「私に物言うとはたいした度胸だ。面白い。そんな君に一つ教えてやろう。この戦争、日本は負けるだろうね」

イシイ軍医中将の意外な発言にアキモトは驚いた。この男こそ日本の勝利を信じ、「お国のため」と真っ先に叫ぶような人物だと思っていた。

「負ければ、他国の支配を受けるだろう。他人に虐げられること。私はそれが心底、嫌でね。だからその時がきたら、うまくやろうと思っているんだ」
「…どういうことですか?」
「国際法が禁止している研究だ。本当のところ、喉から手が出るほど、その研究資料を欲しがる輩(やから)がいる」

アキモトは言葉を失った。この男は何を言っているのだろう?

「私を悪と呼ぶなら、そいつらは一体何だろうね?」

   *

その男は研究資料を手にGHQ本部を訪れると、口の端だけで笑った。

…731部隊の者は、戦犯に問われることはなかったという。医学者たちはその後、日本医学界の第一線に復帰、能力を買われ渡米した者もいた。日米間でどのような密約があったのか…知る者は限られている。

<米軍調査官ヒルのレポート (抜粋)>
…このような情報は人体実験につきまとう良心の咎めに阻まれて我々の実験室では得られないものである。731部隊員の戦犯免責と交換に、こんな貴重なデータが手に入るなら安いものだ…。

『 私を悪と呼ぶなら、そいつらは一体何だろうね?』

   *

アキモトは研究棟の廊下の窓から内庭を見下ろしていた。母子の姿がなくなっても、そこを眺めるのが彼の日課になっていた。

研究意欲に燃えていた頃の自分が懐かしい。ただ純粋に人を救うためにと研究に没頭していた頃の自分が…。

自分は、もう医学者ではない。もしかしたら、人間ですらないのかもしれない。

自責の念にかられていると、やがて、視界の先におぼつかない足取りの子どもが入ってきた。
母親の姿はなく、その子は一人ベンチに座り、ぼんやりとしている。

…まさか、あの子どもは…。

「生きていたのか…」

それを見たアキモトは悲痛な声を漏らし、泣き崩れた。
床に落ちる涙は、彼がまだ人間であることをなんとか伝えようとしていた。



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=影響を受けた作品のご紹介=
ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。

★ 知ってるつもり『731部隊と医学者たち』 × noisycell 『innocence』 ★

石井四郎軍医中将、秋元寿恵夫さん、マルタと呼ばれた人々、単に戦争の悲劇を書きたかったのか、自分でもよくわかりません。影響を受けた歴史番組の内容をそのまま文章におこしただけという気もするしなあ。ちなみにイシイ軍医中将とアキモトのやりとりは私が勝手に作った話。半分フィクション感覚でお読み下さい。

① 知ってるつもり『731部隊と医学者たち』
数ある歴史番組の中で、これを越えるものにまだ出会ってません。歴史好きの父とよく見ていました。今思うと、編集が凄くうまかったのかな。BD出てるなら、買うのに…。この『731部隊~』は衝撃的で、最初から死体の写真はバンバンでるわ。とにかく容赦なくて。恐くて震えた記憶が。今回、再度視聴できるとは!
http://www.dailymotion.com/video/x1uldp5_%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%8B%E3%81%A4%E3%82%82%E3%82%8A-731%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%81%A8%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%9F%E3%81%A1_tech

② noisycell 『innocence』
https://www.youtube.com/watch?v=kHCTl5V-zV4
ちょっと前にヨシノサツキさんの「ばらかもん」にハマってたんですが、そこで使われてた音楽が凄く良かったんです。そのままの流れで、ちょうど今回のを書いてるときに聞いてたのがこれでした。私の物語とはあってないかもですが。もう一つの音楽である「らしさ」は以前他の物語としてUP済なので、そちらも良ければ。
【第143夜】 らしさ 
http://short2story.blog.fc2.com/blog-entry-171.html

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