久しぶりにおいしいご飯を食べたような気がした。

ミキにご飯を一緒に食べようと誘われたときは、何もする気力も無くて、正直勘弁してくれよ、と思っていたけど、親友の力を思い知った気がした。おいしいご飯と彼女との会話のおかげで、何もかも空っぽだった体が、ようやく息を吹き返したのだ。

「あの豚の角煮、おいしかったねぇ」
「ラフテーでしょう。私の分も食べてたもんねー。お店も良かったし。あ、ランチもいいんだって。学科の子が言ってたよ」
「じゃあ、今度はお昼に行こう」

ご飯を食べ終わってから、実家から大学に通っている彼女を駅まで見送りに行った。外はすっかり更けこんで、夜空には冴え冴えとした冬の星が私たちを見下ろしている。駅までの道には人絶えることはなく、酔っ払った社会人や学生がいたるところにいた。

「終電間近なのに、元気だねぇ、吉祥寺は…」
「金曜だからじゃない?」
「みんな名残惜しいのかな…」

ミキの言葉に思わずハッとする。それは今の私の気持ちだった。彼女の帰った後の自分を想像するのはこわかった。また、空っぽに戻ってしまうのだろうか…。

「じゃあ、帰るね」

吉祥寺駅に着いて、ミキが私に言った。私は頷いた。彼女はバックからサマンサの定期入れを出す。

「ミキ、今日はありがとう」
「何、言ってるの。あのお店ずっと行ってみたかったんだ。私の方が感謝だよ」

そう笑うミキはとてもきれいで、女の子の優しさにあふれていた。私が男の子だったら、絶対ミキ狙いだろうな、とついバカなことを考える。そんな私に、ミキは真剣に言った。

「それ以上やせないでね。ご飯だけは、ちゃんと食べるのよ」
「なんかミキ、ママみたいだよ」

私は笑った。心配をかけてしまって申し訳なかった。

「バーカ。でも、いいなぁ。一人暮らし。私も吉祥寺に住みたいよ。今度泊まりに行くわ。じゃあ、また来週大学でね」

ミキに手を振って別れた。私はため息をついて、その場を立ち去る。早く復活しなきゃいけないのはわかっているのに…。でも、自分でその復活方法がわからなかった。そもそも、このことに関して方法なんてものはあるのだろうか。

 北口に出てサンロードに向かう。吉祥寺の駅前商店街通りの一つ。一番大きい通りだ。そこに向かう途中に、あやしい手相の勧誘に合う。気持ちよく終わりたかった今日に、実は新興宗教の勧誘である彼らの存在は、本当にうっとうしかった。私はいつもなぜかよく狙われ、最高で同じ日に四人もの勧誘にあったことがあり、人一倍彼らを毛嫌いしていた。

「すみません。手相の勉強をしているんですけど、良かったら占わせて頂けませんか?」

ほら、また来た。

「すみません。手相の勉強をしているんですけど…」
「手相を宜しかったら…」

三人、四人…。
さすがに記録を更新したくは無かったので、バックから携帯をだし、メールを打つふりをすることにした。こうすれば、さすがに五人目はないだろう。

「…あの、すみません」

…だから、まさかの五人目がきた時は、正直あきれてしまった。よくあきもせずに何度もこられるものだ。私はもちろんまた無視を決めて通り過ぎようとした。それでも、相手はしぶとくつきまとってくる。私は足早になった。でも、次の瞬間、腕を引かれてしまい、思わず私はカッとなってしまった。そこまで強引なのは初めてだった。

「ちょっといいかげんにしてよ!」

振り向いて怒鳴りつけた相手はとても驚いたらしく、きょとんとしていた。

「…いや、俺は…」

同じ年くらいの男の子だろうか。メガネをかけた細身の背の高い男の子。一見好青年そうに見える外見が、より私を逆上させた。

「そんなに占いたいんだったら、当ててみせなさいよ!テキトーに答えて、お金とって。最低じゃない!」

彼は戸惑っていた。そして、仕方なく少し考え込んでから、私に向かってこう言った。

「…あのー、持ち物が一つ無くなっていませんか?とても大切な物だと思うんだけど…」

彼は私の黒のアナスイのバックを指差した。私はバックの中を覗いてみた。

お財布はきちんと入っているし。手帳もある。化粧ポーチもあった。買ったばかりのデジカメもある。携帯は手に持っていたし…。私がわからないでいると、彼は目をつぶって考える素振りをしてから、無くなった物の正体を突き止めた。

「キーケースは?」

私はもう一度バックを覗いた。当たっていた。キーケースがどこにも見当たらなかった。私はしゃがみこんで、バックの中を必死で探した。でも、ない。自分の家のマンションの鍵に自転車の鍵、そして、一番大切なものだったはずの―。
すると彼も一緒になってしゃがみこんでから、私の目の前であるものを掲げた。私は目を見開いた。それは、私の茶色い皮のキーケースだった。

「…さっき落としたよ」

彼はそう言って困ったように笑った。さっき携帯を取ろうとしたときに、落としたに違いない。彼はそれに気づいて拾ってくれたのだろう。だから、強引に私を引きとめたのだ。やっと理解して、私は彼に謝った。

「―ごめんなさい!私、勘違いして。てっきり、その…」

顔は真っ赤になっていたと思う。恥かしくて、きちんと彼を見られなかったから。

「俺もよくあの人たちに声かけられるし。気にしないで」
「本当にごめんなさい!」
「それじゃあ」

そう優しく笑って、彼は去っていく。よく見れば、片手にギターを持っていた。サンロードで路上ライブをしている男の子なのだ。演奏をやめて、急いでかけつけてくれたに違いない。そんな人になんて失礼なことを…。最低なのは私の方だった。しょんぼりと帰ろうとする私の背中に、

「…あ、ちょっと待った」

と、いきなり明るい声が私を引きとめた。振り向いた。さっきの男の子だった。

「君、今日はぐっすり眠れるよ」
「…え?」
「いい夢、見ると思う。泣いちゃうくらい幸せな夢」

私は、ぽかんとしていたのだろう。可笑しそうに彼は笑った。

「占い」

私はさっきの自分のセリフを思い出した。

「…たぶんね。当たるかわからないけど」

そう彼は笑顔で私に告げると、もと来た道を戻っていった。私はしばらくぼんやり佇んでしまった。なんとも不思議な男の子だ。

――今日はぐっすり眠れるよ

ありがたいことに、その言葉は染み入るように私の中に入ってきた。私は、一人笑ってしまった。心地いい眠りの時間が、何よりも一番望んでいたことだったから。嘘でもその言葉は嬉しかったのだ。

でも、驚いたことに彼の予言は当たっていた。

その夜、私は本当にぐっすり眠っていた。
まあ唯一彼がはずしたのは、幸せな夢だった(過去形)、ということだけど…。

夢の中では、私はまだ元彼と付き合っていて、約束だったお台場の観覧車に二人で乗っていた。昔ミキとクリスマス前に乗ったことがあって、見渡すばかりのカップル率に女二人はかなり気まずい思いをした。それを彼に話したら、「淋しい奴らだなぁ」と笑われ、今度一緒に乗ろうと約束してくれたのだ。

夜の観覧車に乗客はなぜか私たちだけ。どうやら彼が貸しきったらしい。絶対ありえないことなのに夢の中の私は、疑いもせず信じていた。二人で乗る観覧車がたまらなく嬉しかったのだろう。

―夜景すごくきれいだね。
―うん。

私たちは電飾で作られた見せかけの世界に心から満足していた。

―見て、フジテレビだよ。カトパン、いるかなぁ。
―カトパンは、かわいいよなぁ。
―こらこら。
―あ、やべ。とっくに天辺過ぎてるし。

私は辺りを見回して、自分たちの観覧車の位置を確かめた。いつの間にか一番高い場所までのぼり切っていて、後は下っていくだけだった。つい言葉が口をついた。

―観覧車って前半楽しいけど、後半切なくなっちゃうね。

二人はしばらく黙り込んだ。淋しい沈黙だった。私たちは同じことを考えている。それがわかっているから、もっと淋しくなった。でも、彼が勇気を出して、先に口を開けた。その言葉のおかげで、私たちはとびきりの笑顔になる。

―そんな哀しい顔するなって。もう一周乗ろうな。

これは果たせなかった夢だ。私たちは少し前に別れたから。朝目覚めて、私は一人泣いた。確かに彼の予言は全て当たっていたのかもしれない。私はぐっすり眠った。そして、泣いてしまうくらいの幸せな夢を見た。

次にあの占い師の彼と会うことができたのは、きっかり一週間後だった。

その日、私はミキと張り切って買い物をして、またご飯を一緒に食べて駅まで見送った帰り道だった。

サンロードの松屋の横で、ギターを弾いて歌う彼を見つけた。彼の周りには数人が囲っていて、みんな彼の歌声に耳を傾けていた。私も立ち止まって、彼の歌声を聴いてみることにした。

柔らかで透明感のある声。アコースティックギターから奏でられる音は、その歌声を暖かに包み込んでいた。知らない曲だったけど、彼の歌はどこか馴染みやすく、優しい人柄が出ていた。気づけば、新たにまた少し観客が増えていた。
 
演奏が終わると、みんなが彼に拍手をした。彼はちょっぴり照れくさそうに笑ってから、「ありがとうございます」と頭をかいた。なんだか微笑ましい光景だった。それから彼に声をかけたり、サインを求めたりする人たちが残り、彼は一人ずつ丁寧に対応していた。私は彼が一人になるのを待つことにした。

「―あ」

そして、一人残っている私の存在に気づくと、これまた恥ずかしそうに彼は笑った。

「聴いてたんだ」
「うん、初めて聴いた。歌がうまいんだね。いい声、してる」
「ありがとう」

謙遜するわけでもない、素直な彼がなんか良かった。

「ありがとうは、こっちのセリフです。この前は本当にありがとう」
「いやいや」

謝ってばかりで、あの日お礼を言うのをすっかり忘れていたのだ。でも、私が言いたかったのはこれではなかった。だから、一番気になっていたことを聞いてみた。

「…あのー。もしかして、本当に占い師なの?」
「は?」
「ほら、あのとき、いい夢を見るよって、最後に言ってくれたじゃない?」

彼はビックリしたように私を見てから、やがて大きな声で笑った。歌声並みに、とてもいい笑い声を持っている人だ。

「もしかして、本当に当たったんだ」
「…うん」
「なら、よかった」
「よくないです」

彼の?の顔に私は笑いたいような、怒りたいような複雑な気持ちだった。そして、なんとなく話し始めていた。

「ずっと好きな人いてね、最近ふられたの」
「へえ~。元彼?」
「そうそう。ありがちよね。で、その人の夢を見たの。一緒に乗ろうって約束した観覧車の夢」
「ふうん。それって、もしやお台場の?」
「そうそう」
「お台場の観覧車かぁ。それもありがちだなー」

私は彼を軽く睨んだけど、なぜか憎めなかった。彼は気にせず、のんびりと続けて言った。

「でも、それが君の唯一の心残りだったんだね。だから、夢に出たのか」
「え?」
「夢で叶ったんなら、きっと君はもう大丈夫だよ」

よくも知らない他人に「大丈夫」といわれるなんて、思わなかった。反則だった。びっくりしすぎて、なんと涙が出た。

「こらこら、俺が泣かしたみたいじゃないか」
「…だって」

自分でも理解できないことに、私は戸惑っていた。しかも、普段めったに人前で涙なんか流さないから、泣き止む方法がわからず、余計に始末が悪かった。しばらく彼は困ったように私を眺めていた。でも、それからギターを構えて軽く咳払いをすると、勢いよく歌い始めたのだった。

彼の歌声にその場の空気が大きく変わっていった。

暗くて淋しげ空気が、突如うごめいたのだ。わくわくする楽しさがひそむもの。それが明るく辺りをはらう。どこまでも澄んだ声が夜の街に響き渡り、限りなく広がっていく。優しくて、ひたむきな力がその音楽には隠されているようだった。驚いた。簡単に涙は止まっていた。

「…良かった。泣き止んだ」

彼はホッとして、きりのいい所で歌うのをやめると、観客から貰っていた缶コーヒーを私に一本差し出した。私は鼻にかかった情けない声で感謝の言葉を述べ、それを受け取った。とても温かい。彼が座り込んだので、私も隣に座った。並んで缶コーヒーを飲む。視線が下がり、人々の様々な靴の色が目を引いた。そのほとんどが軽い足取りで、まるで彼のさっきの音楽に後押しされているようだった。錯覚かもしれないけど…。

「そっか。今日は金曜日なのね。だからか」
「うん」
「…さっきの、いい歌ね。あなたが作ったの?」
「違う、違う。俺には作曲する力はないよ」
「じゃあ、誰の?」
「『くるり』っていう人たちのだよ」
「くるりん…?変な名前ねぇ」
「違うよ、『くるり』!『くるり』の『ワンダーフォーゲル』っていう曲、知らない?」
「『くるり』…?知らない」
「そっかー。偉大なのになぁ…」

彼は心底残念そうだった。そんな彼に私は伝えた。

「でも今、知ったよ。いい曲だった」
「だろー?」

今度はとても嬉しそうに微笑む。その瞬間、私はわかってしまった。この人は自分の好きなように生きて、自分が信じたものを真っ直ぐにこの上なく愛するタイプだ。

「占い師でミュージシャンか」
「まぁ。なんというか…」
「どっちが本業なの?」
「それは、難しい質問だなぁ」
「じゃあ、占いミュージシャンね」
「おいおい。勝手に作るな、変な職業を」
「ははは」

彼といる不思議な時間が、ゆっくりと流れていく。私はなんとなく、やっと方法に近づくものを見つけたような気がした。

「ねぇ、いつもここで歌ってた?」
「ううん、先週始めたばっか。いいね、吉祥寺。しばらく金曜の夜は、ここで歌うと思う」
「何で金曜日なの?」
「金曜の夜って、どこか祭りっぽくて好きなんだ」
「ふうん。祭り、ねぇ」

それは彼の音楽と根本でつながっている何かなのだろうか。面白い人だ。

「さっきの曲…『くるり』だっけ。歌ってくれない?もう一度聴きたいな」
「じゃあ、聴きながら帰りな。もう遅いから」
「はーい」

私は立ち上がり、お尻を叩いた。彼も腰を上げ、メガネを指先でくいっとかけ直す。

「それではリクエストにおこたえして、一曲…」
「お願いします」

ギターを肩に掛け直し、深呼吸して、前を見る。メガネの奥の目は、何かを見据えていた。そして、指がなめらかに動き出し、一つの音が生まれていく。

――僕が何千マイルも歩いたら…

彼の声は澄み切ってのびやかで、この夜の闇によく映えた。真っ暗な世界をそれだけではない違ったものに変化させていく。はっきりとリアルにそれを感じられる。一体どこにそんな力があるというのだろう。こんな普通の男の子に。でも、なんだか彼を見ていると、私自身もそんな力があるのかもしれないと思わせてくれるのだ。

――ハローもグッバイもサンキューも言わなくなって…

私は歩き出した。急に動き出したくなった。この歌は立ち止まって聴いてはいけない気がしたのだ。行かなくては―。

そのまま振り返らないで、私は真っ直ぐ帰った。彼はそんな私を見えなくなっても、しっかりと見届けていた。一人の家に帰って、ベッドに入って眠りに着くまで、その音楽はずっとずっと私の中から消えなかったから。

でも、ぐっすり眠って朝になって目覚めると、私はすっかりその音楽を忘れてしまっていた。気になって気になって、速攻でタワレコに買いに出かけた。今の私には、あの音楽がどうしても必要だった。私がであった大切な、あの音楽が―。

そして、何度も聴きこんで、ようやく私はある決心を固めることができたのだ。

 「また来たんだ?」

 次の週の金曜日の夜。私はまた彼に会った。というか、私から会いにいったんだけど…。

「うん。今日はあなたを見込んで、頼みがあってね」

どうしても私が思いついた方法に、彼も参加してもらいたかった。

「頼みって、どうしたの?」

路上で座り込んでいたところに声をかけたから、彼は私を見上げる形になった。歌う時の真剣なまなざしとは打って変わって、子供のような無垢な目だった。だから、頼める。そして、彼は引き受けてくれる。そう私は確信した。

「手伝って欲しいの」
「何を?」
「泥棒を」
「…へ?」

占い師かもしれない彼でも、思いがけない申し出だったらしい。間の抜けた変な顔をしていた。

「…できれば、まだ犯罪者にはなりたくないんだけど。まあ、とりあえず事情は聞こう」
「なんかダメダメな探偵みたいなセリフねぇ」
「なんだ、そりゃ。で、どうして泥棒なんだよ?」
「泥棒って言うのは大袈裟だけど。実はある人の家に行って取り返したいものがあるのよ」
「もしや…元彼ですか?」
「そう。彼も一人暮らしでね。ちょうど今、大学のゼミ合宿でいないらしいの。だから、やるなら今しかないと思って」
「でも、一体何を取り返したいの?」
「鍵よ。私の家の鍵」
「…そうか。それは取り返したいな。でも、別に家に忍び込まなくても、彼に話せばいいんじゃ…」
「けじめ、つけたいの。別れてから二人で会いたくなくて。友達に頼んだり、友達と三人で会ったりすることも考えたんだけど。それは友達が一番苦しいでしょう?だから…」
「泥棒を?」
「そうよ。それになんか笑い話にしたいじゃない?哀しい別れなんかより、後でバカみたく笑える話にした方がきっといい。あなたなら、思い切り笑ってくれそうだったから」

しばらく彼はじっと私を見つめていた。悩んでいるのだろう。でも、それから仕方なさそうに肩を下げ、面白そうに私を見やってからニヤリと笑った。

「しょうがないなー。まぁ、なんか面白しそうだし。手伝ってやるか」

ほら、やっぱり!私の占いも当たってくれるのだ。

 吉祥寺駅を南口に出て、井の頭公園方面に向かう。急に緑が多くなった。都会のはずの街が、ここから突然子供じみた顔になる。夜の濃い緑のにおいに胸がいっぱいになる。それはどこかクラっとするような感覚を引き起こす。ただ懐かしい、と強烈に思わせるものがここにはあるのだ。忘れていたことが思い出せるような、眠っていたことが蘇るような…。そうだ、ここはいつもそうやって無性に私を懐かしくさせるのだ…。

「なんか懐かしいなぁ」
「え?」

隣で歩く彼のセリフに驚いた。彼は続けた。

「この街を好きになる人は、たぶんこの公園にやられましたっていう人が多いんじゃないかな」
「やっぱり?私もそう思う。あとね、朝、ここを自転車で突っ切って大学に通うのがたまらなく気持ちいいんだって。彼が…あ、えっと…元彼がそう言っていました」
「そっか。確かに朝、自転車で通ったら気持ちいいだろうなー」

そう言って彼は、生まれたばかりの日の光りに照らされた朝の公園を想像していた。私のちょっとした失敗にも動じない、気にすることもない。彼でよかった。私の人選は間違ってなかったと思った。

 夜の井の頭公園は、もしかしたら昼間より、ある意味賑やかかも知れなかった。静かで落ち着いた雰囲気とは言い難い。ちょっとしたカップルスポットになっていたり、酔っ払った人々がここまで足を伸ばしていたり、一見ひっそりと構えてはいるけど、どこか高揚した場所だ。この夜ももちろんそうで、憎たらしいくらいの恋人たちや羽目を外した酔っ払いで賑わっていた。でも、みんな幸福そうだった。暗がりの中、耳にする声は甘い囁き声や笑い声で、普段の日の光りの下では決して見せないような―ちょっとした熱気すら感じさせた。

「…うーむ。なんか、あれだな。今度ここで歌いたくなるな」

彼のセリフに、思わず笑ってしまった。そうしたくなる気持ちがよくわかる。ここはそういう場所なのだ。

 井の頭公園を抜けて、彼のアパートに久しぶりに着いた時、さすがにわかってはいたけど、少し苦しくなった。

「ほら、やるぞー」

でも、彼のその言葉に背中を押してもらって、私は気合を入れ直した。
静かに階段を登り、二階の角部屋に向かう。家のドアの前に立つ。持っていたキーケースを出した。以前に彼に拾ってもらったあのキーケースだ。ここに、この家の合鍵も入っている。私は隣の彼を見た。彼はそ知らぬふりをした。

あの時から、彼の占いは当たっていたのだ。これは、本当にとても大切なものだった。私にとって、このキーケースは…。深呼吸して、鍵穴に鍵を差し込んで、私は静かにドアを開けた。

 月明かりを頼りに室内を見渡した。
彼の部屋は私が訪れていた頃と何も変わっていないようだった。窓際には大きなソファーベッドがどかんと陣取っているのも。机の上が程よく散らかっているのも。服が床に投げだされているのも。なぜかキッチンだけは整然としているのも…。哀しいことにどこも変わってはいなかった。何も変わってはいなかった。それなのに、一体何が変わってしまったというのだろう。今ここで私は何をしているのだろう。よく知らない男の子と内緒で彼の家に忍び込んでいる…。そのこと事態がまるで夢の中のできごとのようだった。なんだか泣きたくなってしまった。

「こら、鍵はどこなんだ?」

でも、隣の彼の現実の声に、私は引き戻される。泣くのは後だった。

「たぶん、テレビの横の…」
「あ、あった。このビーズのついてるやつ?」
「うん。それ」
「ほら」

そう言って彼は私に鍵を渡そうとした。私はそれを受け取ろうと手を伸ばす。でも、受け取れなかった。力なく上げた手は、その行為を拒否していた。鍵は床に落ちた。淋しげな音が狭い部屋にかすかに響いた。

「おーい」

彼はその鍵を拾ってくれて、もう一度私に差し出した。限界だった。必死に抑えていたものが、溢れ出ていた。

「…泣きに来たの?」

彼の言葉に私は首を振った。

「じゃあ、やりとげなよ。自分のしようとしていたことをさ…。本当は自分の鍵を取り戻したいわけじゃないんだろう?」
「え?」
「彼の家の鍵を返しに来たんだろう?」
「…どうして…?」
「っていうか、わかるよ。そのくらい」

私はびっくりして、彼を見上げた。メガネの奥の目は、とても哀しそうだった。その目に我にかえる。涙をおさめてから、キーケースにある彼の家の鍵を抜き取った。終わったことを認めるために私はここに来たのだ。だから、それをやりとげなければいけなかった。自分の鍵の変わりに彼の鍵を置いた。

「気はすんだかい?」
「うん。ごめんね…帰ろう」
「よし。じゃあ、行こう」

私たちは玄関に戻り、靴を履いた。心は落ち着いている。大丈夫だった。ドアを開けて、この家を出れば、全てが終わりを告げるはずだった。でも、そこで彼がふと困ったように声を上げた。

「…あれ?ちょっと待った」
「え?」
「でも、鍵をあそこに返したら、この家の戸締りができないんじゃないか…?」

私たちは顔を見合わせ、気まずい視線を交わした。

「…あ!」

その通りだった。確かに彼の家の鍵をあそこに返してしまうと、この家の戸締りができなくなってしまう…。この家はオートロックなんて立派な機能のあるアパートじゃなかった。私は立ち尽くしてしまった。なんという情けない失態だろう。あろうことか、鍵を返してからのことを私は全く考えていなかったのだ。そうだ。私はいつもこんな風にどこか抜けてしまっているのだ。そして、最後の最後にいつも困り果ててしまう…。自分の爪の甘さに一人嘆いていると、全てを察したのか、彼はちょっとした沈黙の後に私を見て、ぷっと吹き出し、突然思い切り笑いだした。あの飛び切りのいい声で。それを見て、つられて私もいつの間にか笑ってしまっていた。あんまりにも間抜けすぎて、笑うしかできなかったのだ。一度弾けた私たちは存分に笑い合うことで、何かを吹き飛ばしていた。そして、やっと落ち着いてから、私は提案してみた。

「しょうがないから、鍵をもって閉めてから、ドアのポストに入れとこうかな」
「なんか間抜けな泥棒だなぁ」
「だって、しょうがないじゃない。鍵が開いたまま、帰るのも忍びないし…」
「まあ、確かにね」
「…っていうか、なんかもうこうなったら、とことんやっちゃう?間抜けな泥棒からのメッセージつきの置手紙とか。この際、鍵と一緒に付けてみたりして」
「それってルパンとかキャッツアイみたいな?」
「そうそう!『月の雫と鍵はしっかりいただきました。キャッツアイより』みたいな?」
「ははは!いいな、それ。笑えるかも」
「よーし」

勢いにのって、私はバックから必要な物を取り出した。ペンに紙(書ける紙が無くて、手帳の使わないページをやぶった)それからさっきの内容をさらさら書き、たまたまあった、かわいいシールも添えてみた。なかなかのできだった。でも、何か物足りなくて、最後に付け加えた。

「できた!」
「どれどれ」

彼に紙を渡す。それを読んで彼は素直な感想を述べる。

「ふうん、いいじゃん」
「でしょ?」

私は満足だった。彼も微笑んでいた。本当に、もう大丈夫だと思った。外に出て、ドアを閉めた。ポストに手紙つきの鍵を入れる。玄関に落ちた音が聞こえたような気がしたけど、その音はさっきのように淋しくはなかっただろう。気持ちのいい、清々しい音だったに違いなかった。

「よし!じゃー、行くか」

隣の彼の言葉に私は頷いた。こうして、間抜けな泥棒たちは、そのアパートを後にしたのだった。

 
 いい感じに二人ともお腹がすいていた。

私たちは、近くのコンビニで肉まんを買うことにした。そして、井の頭公園に戻り、芝生の広がった見晴らしのいい(夜だから、あまり意味は無いけど)人気のない場所のベンチに腰掛けた。あたたかい肉まんを頬張る。蒸気でメガネが曇ってしまう彼の様子につい笑ってしまった。彼も楽しそうだった。夜空に浮かぶ月は、あんまりにもまん丸で大きく迫って見えた。こんな夜は、こんな月夜は、誰かと一緒に語り合うべきだ。一人ではいけない。隣の彼に感謝しなければいけなかった。

「…月、でかいなー」

どうやら彼も月を眺めていたらしい。もしかして、同じ事を考えていたのかもしれない。こういうときの人の思考は、そんなにずれてはいないだろう。

「いい夜だなぁ。しかも面白い夜だった」
「…色々すみませんでした」
「何、謝ってんの。誘ったときの豪快さはどうしたんだ?」

もうすっかり耳に馴染み始めていた彼の笑い声があった。心地いい優しい時間。ふと、こんなにも急激に人と親しくなったのはどれぐらいぶりだろう、と考えた。人のいい彼のおかげなのかもしれない。彼はうまかった。色んな意味で人と付き合うのが上手な人なのだろう。でも私がわかるのは、きっとそこまでで、彼のことを実際は何も知らないのだ。だから、これまでの感謝も込め、誠意をもって彼に訊ねてみることにした。

「あの、質問してもいいですか?」
「ん?…何だよ、いきなり。別にいいですけど」
「なぜあなたは歌っているのでしょう?」
「えぇ?しかも、なんかまた難しい質問だし。…う~ん。まあ、これはたぶんなんだけどさ。さっき、けじめつけたいって、言ってたじゃん?」
「え、私?」
「そうそう。俺もたぶんそれだと思うんだよね。聞いた時、なんかしっくりきたから。で、泥棒を手伝う気になったんだろうな」

彼はメガネを外して、また月を見上げた。驚いた。とてもきれいな横顔をしていた。

「何のけじめ?私と一緒で失恋?」
「…ううん。そこがまた難しいんだ。いろいろなことのような気もするし。でも、結局のところは今の自分に対してのけじめなんだろうな、とも思う。俺もね、君と一緒で知ってる人の部屋に忍び込んだんだよ」

私は彼を見つめた。月明かりの彼は、どこかぼうっとしていて、輪郭が少しぼやけて見えた。

「まぁ、俺の場合は兄貴の部屋だけど。今では鍵がかかってて、誰も近づかない部屋。時折、母親が行ったりしてるんだろうけどね…。あの部屋は、時間が止まってるから。兄貴が死んで以来」

強い風が吹いた。ざわざわと周りの木々を揺らし、頼りなげな心をいっそう掻き乱していくようだった。

「なんで急に俺は、兄貴の部屋に忍び込んだかわからない。前の日に兄貴の夢なんか久しぶりに見たせいかもしれない。とにかく俺は、兄貴の部屋に行ったんだ。驚いた。時間って生き物なんだなって痛感したよ。止まった時間は、もう死んでるんだ。それを目の当たりにした時、突然眩暈がして吐き気がした…。でも、そのまま帰れなくてさ…。視界が霞む中で、部屋の片隅にあったギターだけが妙にくっきり光って見えたんだ。それからだよ。なんとなく歌い始めたのは」
「…そうだったんだ」
「うん」

彼は目を閉じて、一つ大きなため息をついた。それから、またぼんやりと月を見上げる。私はこの時、決して彼の中で満ちることのない月を見た気がした。心の中でため息をついた。無力だ。こういう時の自分の、人間の、無力さに呆然としてしまう。でも、私にできることはたぶん一つだけあって、結局はそれが人間のできる唯一の大切な力なのかもしれなかった。

――僕が何千マイルも歩いたら…

「…え?」

彼が驚いて私を見ていた。私は笑った。

「覚えたの。いい曲だったから。私の声だとあんまりだからさ、一緒に歌ってよ」

私は続けた。彼のような歌の力が、自分に少しでもあることを祈った。彼を信じて、一緒に歌ってくれることを待っていた。

――手のひらから大事なものがこぼれ落ちた
――思い出の歌、口ずさむ

透明な声が重なった。適わないな、と思った。彼の声の凄さ…、抜群の良さ、これはホンモノだという気がした。彼のお兄さんはわかっていたのかもしれない。

ギターの音がさらに重なって、穏やかに私たちを包んだ。今日の、この瞬間の、彼の声は恐ろしく澄んでいた。神がかった迫力があって、目の前にあるもの全てが光り輝きそうだった。彼の声はきっとあの月まで届いたはず…そう、信じたい。

「…ありがとう」

歌い終えた彼はメガネをかけ、すっきりとしたいい笑顔をしていた。

「バカだなぁ。忍び込むなら、言いなさいよね。泥棒仲間なのに」

私は笑った。良かった、と思った。私たちを取り巻くものは決して一筋縄ではいかないけど、それだけではないはずだ。こうして、誰かと歌って笑い合えるし、時には間抜けな泥棒だって、やってのける力があるのだから―。

「あ、そうだ。もう時効だと思うから言うけど、あれは占いでもなんでもないから」

突然彼が申し訳なさそうに、鼻の頭をかいて白状した。

「…何が?」
「初めて会ったときの。『いい夢を見るよ』ってやつ」
「え、そうなの?」
「うん。あの時、君の目の下にクマがあるのがわかってさ。この子、眠れてないんだなって思って。だから、あんなふうに言えば、案外気持ちが楽になって、ぐっすり眠れるものなんじゃないかと」
「…そうだったの」
「だから、怒鳴られた時は、正直恐かったなぁ。迫力があった」
「ちょっと、ひどいなあ」

でも、彼はとても優しかった。初めて会ったときから。それに私が救われたのは紛れもない事実だ。

「じゃあ、占いっていうよりは催眠ね」
「まぁ、はずれてはないかもな」

彼の優しい笑顔に励まされた時、心待ちにしていたある気配を感じた。

 それはゆっくりと確実に近づいてきていたもの。…もしかしたら、ずっと前からどこかで見え隠れしていたものなのかもしれなかった。キーケースを落としたあの時から、彼と出会ったあの時から、彼が教えてくれたあの音楽から、それはとっくに存在していたのかもしれない。

ただ私の心の準備ができていなかっただけで、目の前にしっかりとそれは広がっていたのだろう。彼がいつか語っていた『祭り』という言葉がなんとなく頭をよぎった。彼はもしや全てを知っていたのだろうか…?

「ねぇ、もう一つ聞いてもいい?」
「何?」
「あのさ…」
「あ、待った。今度こそ、当ててみせようか?」

ニヤリと笑う彼。私は期待を込めて、彼の答えを待ってみた。

「う~ん。もしや俺の名前じゃないか?一体何者なのか知りたくなった…とか?」

その答えに、思わず私は笑ってしまった。

「あれ、違った?」
「ううん。まぁ、当たりにしとく」
「なんだよ、当たりにしくって」
「はずれてはないかなーって。そうよね、まずはそこからだったわ」
「なんかすっきりしないなー」

どこか納得できない様子の彼。でも、彼は正しい。私はまた肝心なことを忘れていたのだ。目の前の新たしいドアをきちんと開けるための、受け入れるための、鍵になる大切な言葉を。

「ねぇ」

そうだ、私たちはまずはそこから…

「あなたの名前、教えてくれる?」

そして、きちんと、ここから始まっていくのだろう。



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=影響を受けた作品のご紹介=
ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。


★ くるり『ワンダーフォーゲル』 × くるり『ばらの花』 ★

ある日、大好きな吉祥寺を舞台に物語を書きたい思いました。そのためにまず吉祥寺のテーマソングを見つけないと!友人と夜通し遊びほうけて、朝になって白んでいく吉祥寺の街を歩いていると、ふと彼らの音楽が聞こえました。歌のように、失恋から立ち直るまでの話を書こうかな。…そんなふうに、生まれた物語です。

3部作の中で、最初に書いた物語。手相の勧誘にあいすぎて、「いい加減にしてくれよ。どうせなら神様、素敵な出会い希望で!」って思ったことがきっかけだったかような…。何でも物語になるもんだなあ


くるり『ワンダーフォーゲル』
http://www.youtube.com/watch?v=I_PndY44ROg
くるり『ばらの花』
http://www.youtube.com/watch?v=fpjIsylnvU8
くるり『ばらの花・ワンダーフォーゲル・ロックンロール』
http://www.youtube.com/watch?v=Ic3yrHXiBYQ

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 春の早朝、この公園を自転車で突っ切るときの爽快感はたまらない。

 朝の桜はちょっと秘密めいた透明感があって、空の青も、木々の緑も、池の水面も、空気の色と重なって洗練されている。新しい一日を告げようとする太陽の光りのサインに、この街がいっしんにこたえようとしているのだ。その中を僕は自転車で颯爽と駆け抜けていく。本当だったら、しっかりかみしめて歩くべきところなのかもしれない。でも、僕は贅沢にもこうやってあっさりと通り過ぎようとする。   

 深夜のコンビニバイトを終えて、僕は一人暮らしのアパートに戻る途中だった。眠たげでぼんやりとした頭に、太陽の眩しさはさすがに堪えたけど、この井の頭公園を通る時だけはなぜか違った。無性に頭が冴えてくるのだ。穏やかな気持ちで朝の光りを浴びることはやけに神聖で、どこかで眠っている感覚を呼び覚まされるような不思議な心地よさがあった。

 …もうこの街に住んで二年が経つのか。

 ふとそんなことを考えていた。僕は大学入学を機に上京をして、大学最寄り駅だったこの吉祥寺に住み始めたのだ。最初は新宿にも渋谷にも電車一本で行ける交通の便に惹かれたものだったけど、案外住んでみれば吉祥寺で何でもそろってしまうし、この街を出る必要などほとんどなかった。まあ、一つだけ困ったことがあるなら、それは故郷の友達が東京に遊びに来たときなんかで、この街以外よく知らない僕は都内観光の案内には全く役立たないことだ。逆に東京によく遊びに来る友達の方が案内役にはうってつけだったりして、僕はしばし立場のない思いをするのだった。この街に、いい意味でも悪い意味でも僕は浸透しすぎたのかもしれない。

 無意識に自転車にブレーキをかけていた。キーッと甲高い音を立ててタイヤが止まる。足をペダルから外し、地面につける。バイトで立ちっぱなしだった足のだるさに今更ながら驚いた。疲れてるんだな、と思った。こんなに頭は冴えてんのに…。本当はすぐにでもうちに帰って布団に転がるべきところを僕はそのまま自転車を手で押し、近くのベンチの脇に置いた。そして、ひんやりとしたそのベンチの上に腰掛けていた。

 …二年経って、なんか変わったもんかな、俺。

 伸びをしながら見上げると、木々の隙間から淡い光りがあふれていた。満開を過ぎ始めた桜が、少しずつ風に運ばれていく。その姿にいつの間にか見とれている自分がいた。やっぱり朝の桜は特別だった。昼や夜にはないものが目の前に広がっているのだ。ずっと見つめていると、なんだか吸い込まれそうになった。

 ――ガシャ。

 そんな桜にすっかり酔いしれていたものだから、その奇妙な音が聴こえたとき、僕はつい慌ててしまった。人気のない辺りを見回してみる。案の定、誰の姿もなかった。まだ散歩するには早すぎる時間だ。なんだよ、気のせいか…。

 ――ガシャ。ジー。

 でも、その音は確かに聞こえた。そして、

 ――ガシャ。ジー。ガシャ。ジー。… 

こう何度も響き渡ったのだった。

 ――ガシャ。ジー。ガシャ。ジー。… 

…なんだかガンダムが歩くみたいな音だな。

あんまりにも目の前の情景とは違和感がありすぎて、僕はなんとなく昔テレビで見た懐かしのヒーローを思い出した。

 ――ガシャ。ジー。ガシャン。ガシャン、ガシャッガシャッガシャッ!

今までとは少し調子が変わった音がしたと思ったら、次の瞬間、別の音―声―がはっきりと聞こえてきた。

「はー?なんで今、壊れんの!」

乱暴な物言いに驚いて、飛び上がる。僕は声の主を懸命に探した。

「今が一番のチャンスなのに…」

視線を上げる。その声は、どうも隣の桜の木からのようだった。僕は恐る恐る、その木に近づいてみた。まさか桜がしゃべっているというわけではないだろう…と信じて、ゆっくりと見上げてみる。

「―あ」

すると僕の存在に気づいたその声の主は、なんとも間抜けな声をあげた。そして困ったことに、それから今までに見たことのない巨大な桜の花びらを僕めがけて落としてきたのだった。

 ――ガシャン、ガン、ガシャーン!!

気がついたときには、さっきのベンチに横になっていた。日はもっと高く上っていて木漏れ日から覗く光りは強く、辺りも少しずつ活気づき始めていた。近くで犬を連れて歩く老人の姿が見える。池では鴨が群れをなしているのか、元気よく鳴く声がした。

 …俺、一体どうしたんだっけ…?

思考が動き出した途端、急に頭がズキズキと痛み出した。思わずうめき声を上げる。額に触れようとすると、冷たい感触があった。濡れたハンドタオルだった。そう言えば、桜を見上げたら、何かが落ちて来たんだよな…。

「あ、気がついた!」

いきなり誰かが僕の視界を遮った。目を擦ってよく見ると、知らない女の顔が僕を見下ろしていた。

「え?誰……ですか?」

混乱している僕の問いに、彼女は大きな声で笑った。

「あはは!確かに、そうよね。あ、私はさっきそこの桜の木に登って撮影していた者だけど。いきなり君が現れたから、びっくりしてカメラ落としちゃってさー。本当にごめん。痛かった?」

そう言って自分のカメラを見せて、額を指差す。なるほどやっと理解した。僕の頭痛の原因は、そいつか。

「でも、当たってくれたおかげで、壊れたカメラが復活したみたいでさ。調子が良くなったんだよね。しかも、頭に当たった後になぜか君がキャッチしてくれてたから、カメラは運良く無傷だったし。サンキュー」
「……はあ」

 …にしても、やっぱりものすごく痛かったんですけど!とは、言い返せなかった。彼女が本当に喜んでいるのは見ていてわかったし、それに痛みを差し引いても、目の前の彼女はメチャメチャ可愛かったのだった。
少し日本人離れした顔立ちにはっきりとした目鼻が映え、ぬけるような白い肌に長い睫毛が、サッと影を落としている。なんとなくさっきの木漏れ日を思わせた。隙間から覗く笑顔が、ただ眩しかった。

「おーい、大丈夫?生きてるー?」
「…あ、はい」

頭痛が心臓の鼓動に徐々に重なりあっていく。僕はまだその理由をよくわかっていなかった。

「それにしても、でかいカメラというか」
「あー、これ?昔のカメラだからね。アンティークって言うの?」

 僕に直撃したらしいそのカメラは、見たことがないデザインをしていた。今主流になっているデジタルカメラとは比べ物にならないほど大きい。彼女の両手におさまらないのだ。金属のごついボディーには茶色の革が貼ってあって、どことなくレトロなシロモノだった。

「確かによく落としそうだな」
「さっきは、たまたま。普段はこうやって持ち運んでる」

 彼女はそう言うと、僕が何度も耳にしていたあのガシャン、ガシャン…という奇妙な音を立て始めた。すると、カメラが簡単に姿を変えていく。飛び出していた家の屋根のような部分がうまいこと下の土台におさまって、ただの長方形の箱になってしまったのだ。まじまじと見つめていた僕が面白かったのか、彼女は逆に今度は組み立てて見せる、さっきのかたちに戻す。ガシャン、ガシャン。

「…すげー」
「だろー?」
「やばい。本当にガンダムみたいだ…」
「は?」

彼女は、ぽかんとしていた。それから、かたちのいい眉をしかめた。

「…ガンダムって…もしや、アムロとかシャーとかの、ガンダム?」

僕は頷くと、彼女は吹き出した。

「えー、それはなんかショックだなー」

とは言いつつ、腹を抱えて楽しそうに笑っていた。そのひきつけられる笑顔に、気づけば僕もつられて笑ってしまっていた。公園に差し込む日がふと緩む。いつの間にか散歩途中の人も立ち止まっていて、僕らを見て微笑んでいた。なんだか不思議な朝だった。

「そうだ。お詫びにプレゼント」

彼女は自分の空色のバックから何かを取り出し、僕に差し出した。受け取ると、それは一枚の写真だった。

「…ポラロイド?」
「そう。復活を遂げた、このカメラで撮った一枚」

そこには僕の好きな朝の桜がいいアングルにおさまっていた。なぜか少し色あせたような懐かしい空の青。それをバックに、あの桜の透明感が申し分なく際立っていた。とてもいい写真だった。

「もしやプロのカメラマン…とか?」

彼女は笑った。

「まさか!」
「え、でも…」
「素人だし。しがない一般人だし。ただそうだなー。いいと思ったものが、ホンモノかどうか確かめたいだけっていうか…」
「?」
「ほら、お祭りっぽいものをさ。ただ探してるだけよ」
「…祭り?」

うまく理解ができないでいる僕に、彼女は即座にカメラを向けた。

 ――ガシャ。

 不意をつかれたものだから、変な顔をしていたに違いない。思わず僕は彼女を睨むと、その表情はニヤリとしたものだった。やられたと思った。しかも、彼女の方が一枚上手だった。僕の写真はカメラから出てこなかったのだ。ただかわりにガンダムはすかした音を出しただけだった。

「あ、フィルムが終わっちゃったんだ、残念」

 最初から僕を撮る気などなかったのだろう。その言葉の裏に隠された本音に、僕は少し複雑になった。答えをはぐらかされたのか、それとも、単に僕には興味がないと伝えたかったのか…。

「まぁ、また次の機会があればね」

僕の思いとはよそに、彼女はなんとも愉快そうだった。

その時だ。

――今何で曖昧な返事を返したの。

いきなり音楽が響き渡った。

――何故君はいつでもそんなに輝いてるの。

新たな音の出現に、今度慌てたのは彼女の方だった。

「やば!時間だ」

どうやら時間になったら鳴るように、携帯のアラームのセットをしていたらしい。彼女は自分のバックの中を必死に探っていた。なんとなくその間に僕は記憶を辿っていた。流れる音楽は、どこか聴き覚えがあったからだ。悔しいことに、そういうときに限って名前がなかなか出てこない。確かメガネをかけた男が歌っていた。けっこういいな、と思っていたのに…。頭痛がいやらしく邪魔をしているようだった。やっと携帯電話を見つけ出した彼女は、安堵して音楽を止めた。

「そろそろ私、行かないと」
「え?」
「カメラ、サンキュ。それじゃあね」

 そんな別れ際の一瞬だった。
僕は彼女から目が離せなくなったのだ。それは簡単に見落とせそうな些細な発見だったのかもしれない。彼女が僕に向けた完璧な笑顔―それはとてつもなく鮮烈で強烈だった。彼女の美点すべてが見事に集結してしまっていた。あろうことか、僕の好きな朝の桜の中で。

彼女はそんな僕を気にもとめず、手を振って行ってしまった。気づいた時には、その華奢な背中をぼんやりと僕は見送っていた。そして、姿が見えなくなってからしばらくして、僕はどうしようもなく大切なものを逃したことに気がついた。

「…何やってんだ、俺は」

情けなく一人呟いた。

「やっぱり全然変わってなんかなかった…」

 何かの始まりだったかもしれないという予感を胸に抱いた時には、もう手遅れだったりするのだ。また性懲りもなく、波のように押し寄せてくる。昔から何度も味わってきたはずの胸の痛みが…。どうして始まる前に終わってしまったというだけで、こうも苦い気持ちになるのだろう。

 でも、それは一時だった。この朝の光りの中で、やがて痛みは消えていくのだ。家に戻り、すぐさま眠りにつけば、なんだ。夢だったのか、とあっさり片付けられることも知っている。

空を見上げた。視界の端で桜の白い影がちらつく。僕はいつの間にか彼女が残したポラロイドを見つめていた。

――ただ、いいと思ったものが、ホンモノかどうか確かめたいだけ

木漏れ日。あの完璧だった一瞬。

「…頭、いてー」

 自分のシュールな声に力が抜けてベンチにへなへなと腰を下ろした。頭痛の追い討ちは、なんとも厄介だった。さらに困ったことに、僕の隣には彼女の気配がまだ残っていた。ベンチの上には、彼女に忘れられた濡れたハンドタオルがあった。指先で軽く触れる。それは、ひんやりとまだ冷たかった。

 ポラロイド。頭の傷の疼き。ハンドタオル。彼女が残していったそれらが今ここにあって、自分のもとに確かにあるということ…。想像してみた。なんてことはない。それだけで充分なのだ。簡単に忘れられるわけがなかった。絶対に思い出すに違いなかった。あのアンティークのカメラも、きっと詳しく調べてしまうに違いなかった。ため息をついた。いい加減、腹をくくった。

 明日もう一度ここで立ち止まってみようと思った。彼女とまたあえるかどうかはわからない。でも、自分の中で何かが少し変わるのかもしれなかった。

「朝だな。きっと、朝のせいだ。それと桜と…」

 ――翼が生えた。

耳に残る、あの音楽も。

日はもっともっと高く上り、優雅に僕を見下ろしていた。

 新しい朝は、まだ始まったばかりだった。



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=影響を受けた作品のご紹介=
ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。


★ くるり『ワンダーフォーゲル』 × くるり『ばらの花』 ★

ある日、大好きな吉祥寺を舞台に物語を書きたい思いました。そのためにまず吉祥寺のテーマソングを見つけないと!友人と夜通し遊びほうけて、朝になって白んでいく吉祥寺の街を歩いていると、ふと彼らの音楽が聞こえました。歌のように、失恋から立ち直るまでの話を書こうかな。…そんなふうに、生まれた物語です。

友人に「朝の桜の物語を!」とリクエストされて書いた物語。なんとなく私の中でカメラ女子のモデルは土屋アンナさんでした。ちなみにポラロイドカメラはSX-70がモデル。

くるり『ワンダーフォーゲル』
http://www.youtube.com/watch?v=I_PndY44ROg
くるり『ばらの花』
http://www.youtube.com/watch?v=fpjIsylnvU8
くるり『ばらの花・ワンダーフォーゲル・ロックンロール』
http://www.youtube.com/watch?v=Ic3yrHXiBYQ

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ピザなんて、一番バカバカしい食べ物だと思う。

いかにも外国人が思いつきそうな食べ物だ。見た目がとにかく派手で、無駄にでかくて。そんなインパクトもさることながら、味なんて、もちろん…僕なんて考えるだけで、気持ち悪くなる。最悪で、最低で…好んで食べるものじゃない。チーズやらトマトソースやらが、ねっとりと混ざって、絡み合って…。

そんな食べ物を目の前にいるこの女は、幸せそうに食べている。お気に入りのピザ屋を吉祥寺に見つけたとかで、近くに一人暮らししている僕は、いきなり呼び出しをくらったのだ。

「う~ん、やっぱりトニーズのピザが一番おいしいですね」
「…そう?俺、ピザ苦手だわ…」
「えー、もったいない!ピザなんて一番幸せな気分にしてくれる食べ物なのに」
「………」
「一番パーティーっぽい食べ物というか。こうイメージ的に」
「それはわかるけど…」

一番幸せな気分にしてくれるかは、とても疑問だ。しかも、今はパーティーなんかじゃないし。季節的に夏に食べるのもどうかと思った。まぁ、今は夏から秋に移り変わっていて、まだマシなのかもしれないけど…。夏の終わりを感じさせる井の頭公園の夜は、別に嫌いじゃないけど、ピザなんかでわざわざ呼び出しを受けて、行く所ではなかった。

「夜になると風も気持ちいいし。やっぱりテイクアウトにして正解でしたね。お店も公園の近くで良かった。あ、先輩も食べて下さいね。ミックスピザもいいけど、納豆ピザもいけますよ?」
「……へえ…」

向こうの方では青春ドラマを絵に描いたような学生たちが、残り少ない夏を惜しむかのように花火をしていた。意識をなるべくそっちに向ける。

「おいしいなぁ~」
「お前、本当に好きなんだな」

フルカワは、満足そうに微笑んだ。

「ピザ、好きですねー。見た目も。味も」
「なんか悩みなさそうだもんな、フルカワは。こうイメージ的に」
「そんなことないのに。まぁ、よく言われますけどね」

ピザ好きのこの女、フルカワは大学の部活の後輩で、学年は僕の一個下にあたる。とにかく明るくて、先輩後輩も男女も関係なく、人と気持ちよく付き合える奴だった。きっと部活内でのムードメーカー的存在なのだろう。僕はどちらかというと、そんなフルカワとは対称的で、部活の中では、特に目立ってもいなかったし、大人しく静かに構えていた。飲み会でも、一人で酒を遠くで飲んでいることが多かったし。でも、そんな僕にフルカワは、ある日なんの気兼ねもなく話しかけてきて、僕のコップにたくさんのビールを注いでいた。なんとなく不思議で僕はフルカワにたずねてみた。

「そう言えば、お前。人に酒を勧める割には、あんまり飲んで無いよなー」

彼女は、フフッと愉快そうに笑った。

「ばれました?実はお酒が飲めないんですよ、私。だけど、お酒の席は好きなんです。みんな楽しくはしゃいじゃって、なんかお祭りっぽいし」
「ふうん。祭り、ねぇ」

僕がフルカワとなんとなく仲良くなったのは、そんな他愛もない話をしてからだった。それからというもの、部活の飲みでも合宿でもいつも最終的には、僕とフルカワの二人に落ち着いていた。そして、くだらない話ばかりをしていた。だから部活内ではよく僕とフルカワの仲を疑う奴らもいたけど、僕らは別に何もなかった。お互いに、他に恋人もいた。
ふと気がつくとフルカワが、ピザを食べる手を止めて呟いていた。

「あぁー、もう夏も終わっちゃいますね」
「そうだなー」
「なんか夏の終わりって、いつも何かをやり残した気がする…」

フルカワが珍しく、しんみりとしていた。

「…っていうか、それって夏休みの宿題とかじゃないか?ゼミの課題とか」

僕は、笑い飛ばしてやった。すると、フルカワは案外くいついて来た。

「違いますよ!あ、でも夏休みの宿題はなんか近い気がする…。先輩は小学生の頃、夏休みの宿題は、最初にやるタイプでした?それとも最後にやるタイプ?」
「最後まで残してたなー。で、そのままずっとやんないで、ウヤムヤにするタイプだった」
「えー、ひどい!」
「あのなあ、小学生なんて今も昔もそんなだぞ。お前はどうだったんだよ?」
「私は最初にまとめてやるタイプでした。でも、絶対何か忘れてて、最後に慌てるんですよね」
「なんかフルカワらしいというか…」

すると、フルカワはピザを食べていたことを思い出したようで、ニッコリとして、残っていたピザを食べ始めた。その姿を見て、僕はなぜか昔田舎で飼っていた子犬のクロを思い出した。なんとなくフルカワと雰囲気が似ていたからかもしれない。そう言えば、クロはチーズが好きだったな…。クロを思い出したことで、勢いでピザを口にしてみたけど、慌ててビールを足して胃に流し込んだ。

「あー、おいしかった。ごちそうさまでした。先輩、また一緒にピザを食べましょうね」

そんな僕とは反対にフルカワは、買ってあったジンジャーエールをうまそうに喉を鳴らして一気に飲み干した。

ピザ、ジンジャーエール、フルカワ、クロ…これがなんとなく僕の中で、不思議なセットになった夜だった。


『 夏の終わりって、いつも何かをやり残した気がする… 』


二年近く付き合っていた彼女と突然別れることになった時、フルカワのその言葉がなかなか頭から離れなかった。

よくわからない理由で僕はあっさりふられたのだった。その予兆さえ、さっぱり気づきもしなかった。自分の中で模索して、やっと見つけだした理由は、驚いたことに全てが言い訳じみていて、未練がましかったのもショックだった。…僕は何かをやり残してしまった。そんな曖昧な思いだけがいつの間にか理性にも取り巻いていて、しばらくはうまく機能できていなかったと思う。

だから、フルカワがピザを食べようとまた誘ってきてくれた時、何もかもがどうでも良いい状況だった。失恋なんかで…と言われればそれまでだけど、何事も整理しきれてないことに戸惑うのは同じだと思う。それを早く持ち直せるかが問題なのだろう。だから、この時の僕はピザが嫌いとか、面白いからフルカワに会いたいとか、正直何も無かった。何も感じなかったと言う方が正しいかもしれない。誘ってくれたフルカワには、申し訳なかったけど…。

「この前、観た映画が本当に良かったんです。『ロスト・イン・トランスレーション』ってやつなんですけど…。日本を舞台にした外国の映画でね。ビル・マーレイっていう役者さんが、ちょっと情けない役にすごくはまってて。監督さん、素敵な人なんだろうなって思ったら、女の人でね…」

だから、好きな映画の話でも、僕はうまく笑えなかった。勘のいいフルカワは、すぐに気づいたに違いないのに、何も聞かなかった。フルカワは、ただ笑って話を続けていた。

「…あと音楽も良くて。外国の人なのに、日本の曲のセレクトが思いもかけずマッチしていて良かったんですよ。でね、思ったんです。映画も何もそうかもしれないけど、どこかで違和感を覚えたら、もうダメで。自分の中で受け入れられなくなっちゃう。失敗作になっちゃうんだなって」

付き合っていた彼女は、僕に違和感を覚えたのだろうか。だから、失敗したのだろうか…全てがそこに結び付いて考えてしまう今の僕もどうかと思ったけど、あながち間違ってはいないような気がして少し笑えた。

すっかり秋の気配に姿を変えた公園は、前日に雨が降ったとかで、どこか夜の闇にうっすらと霧が立ち込めていた。まだ乾ききっていない土の上には、黒い水たまりがあった。

「あ、話は全然違うんですけど。実はバイト代が貯まりまして、やっと私、吉祥寺で一人暮らしできることになりました」
「え?」

それは、びっくりだった。つい驚いてしまった。

「今日やっと、きちんと反応してくれましたね」
「……」
「それは、いいんですけど。でね、私ひとり暮らしの記念に吉祥寺のテーマソングを探してみようと思ったんですよ」
「…はあ」

フルカワはいつも突然何かにひらめくことがあった。この時もそうで僕はよくわからず、ただ相槌だけ返した。

「今日はせっかく見つけたそのテーマソングを先輩に教えてあげようと思って。なーんて、単に誕生日に手に入れたiPod touchに色んな音楽入れたかっただけなんですけどね」
「…吉祥寺のテーマソング?」
「そうそう。吉祥寺に似合う曲をね、探してみたの。考えてみると案外難しいんですよ。でも、今から聴いてもらうのが突然ひらめいて。先輩は一人暮らしも先輩だし。教えてあげたくて」

フルカワは少しはしゃぎながら、自分のiPod touchのイヤホンを僕に渡した。吉祥寺にあう曲なんて今まで考えたことも無かった僕は、とりあえずイヤホンを耳にはめてみた。フルカワが嬉しそうにスタートボタンを押す。聴こえてくる音楽に、今度こそ僕は本気で驚くハメになった。

「知ってますか?この曲、くるりの『ワンダーフォーゲル』ってやつなんですけど…」
「…………」
「私は吉祥寺にあうなって思ったんですけど。どうですかね?」

なんのセリフも返せなかった。そんな僕を不思議そうに、フルカワが見つめていた。

「……いや、…あの…」
「あはは。先輩、なんか片言だし」
「…………」
「先輩?」

――矢のように月日は過ぎて、僕が息絶えた時…

「…どうしたんですか?」

――渡り鳥のように、何食わぬ顔で飛び続けるのかい?

フルカワは何も悪くない。何も悪いことをしていない。それは、わかっている。でも、今この瞬間だけ心から恨んでしまった。よりによって、その曲を選ぶなよ…。しかも、話題に出すな…。

「……勘弁してくれ…」

今まで出なかったものが、この時になって、ようやく流れ出ようとしていた。

慌てて横にあったピザを口いっぱいに詰め込んでいた。独特のしつこい味が、口いっぱいに嫌らしく広がる。ビールを飲んで奥に押し込もうとしたけど、あまりの量に胃も口も受け入れられず、勢いよく吐き出してしまった。苦しくて涙がでた。自慢じゃないけど、酒を飲みすぎて吐いたこともないのだ。フルカワもそれを知っていただろうし、ただただ驚いていた。こうでしか泣くことを許せない自分が、どうしようもなく情けなかった。

「えぇ!?ちょっと先輩、大丈夫ですか??」

戸惑うフルカワの声が、遠くでぼんやりと聞こえた。

僕は、思い出していた。

      *

…あれは、いつだったろう。

彼女がノースリーブを着ていたから、夏だったのかもしれない。白くて細い腕をよく覚えている。手には、僕が持ちきれなかった分のスーパーのレジ袋を提げていた。空には幾つか星があって、あまりきれいではない東京の空にも星があることに、僕はすっかり慣れ始めていた頃だ。二人で吉祥寺の夜道を静かに歩いていた。

「今日は、ハンバーグを作るからね」

彼女はこれから僕の家で、料理をするとはりきっていた。

「うまく作れるのかよ?不安だな~」
「疑ってるの?本当においしいんだから」

そうだ。確かにおいしいハンバーグだった。何もかもがこの頃は、順調だった。いや、きっと順調すぎたのだろう。彼女と並んで歩いて二人で帰る家には彼女の作るおいしい飯が待っていた。二人で食卓を囲む姿も…あった全てのことが今になって、とてもあたたかな色をしているのがこわい。

その夜道で彼女がなんとなく口ずさんでいたメロディを僕は気になって聞いてみた。

「くるりの『ワンダーフォーゲル』だよ。最近のお気に入りなの」

彼女が好きな曲というだけで、それは僕の中にもすんなり馴染んでいった。

「ふうん。CD持ってたら、今度貸してくんない?」
「いいよー」

彼女は微笑んでいた。それからいつものように下手に僕をからかった。

「あ!でも、聴いたら泣くかもしれないよ?」

彼女がこの時、全てを予想していたんだとしたら相当笑える話だ。今となっては、たずねることすらできない。借りたCDは未だに僕の家にあって、所在無く佇んでいる。僕の中で消化しきれてないから、きっと居場所がないのだ。

       *

「あー、本当にびっくりした。久々にびっくりしたよー」

フルカワは小さい手で、僕の背中を頑張ってさすっていた。

「うー、ごめん。悪い…」

フルカワは大きいため息をついて、僕にやっと気になっていた疑問を投げつけてきた。

「こんなになるって、おかしすぎですよ。先輩、何かあった?」

僕は一瞬言おうかどうか迷ったけど、介抱してくれるフルカワの前で、ずっと黙っているわけにもいかなかった。

「…別れたんだ」
「え?」
「彼女と」
「えぇ?本当に?」

しっかりと頷いてやった。ありがたいことに、恥も何も吐いた後では何も無かった。

「…そうか。だから、元気なかったのか」
「すみません」
「いや、謝るところじゃないですよ。そこは」

そのツッコミに、なんとなく笑ってしまった。

「一言、最初に言ってくれればいいのに。一番言いづらいことかもしれないけど。あ、でも、そうよね。私もきっと言えないだろうし。え?でも、それじゃいけないし…」

フルカワの一人言が続いた。なんだか一人芝居をする役者になれそうな勢いだった。また笑ってしまった。

「あ!別れてから、きちんと泣けました?」
「…よくわからん」
「波があるもんね。平気な時とダメな時と…。でも、ゆっくり整理していけばいいんだよ。自分の中の引き出しに入れるものは入れてさ」
「引き出し?」
「そうそう。引き出し。ゆっくり整理整頓するための」
「フルカワにあるんだ?そんな引き出し」
「ありますよ。これでも一応女子の端くれですから。敗れた恋の一つや二つくらい……ん?いや、三つくらいかな」

そのセリフに二人で笑った。今度は自然と笑えた。復活の兆候だろうか…。

「でもね。私の引き出しは、ちょっぴり特別なんですよ」

フルカワは急に秘密を打ち明けるように、小さな声で囁いた。僕は、首を傾けた。

「のび太の引き出しみたいなのが理想だと思ってるんです。だから、引き出しを想像する時は、いつものび太の引き出しなの」
「のび太って、ドラえもんの?」
「そうそう。勉強机のタイムマシンの引き出し。いろんな時代に繋がっていて、行こうと思えばそのタイムマシンに飛び乗って、いつだってどこだって行けるってやつ―。だからね、ゆっくりきちんと整理すれば、いつか自分の時間をきっと取り戻せるんですよ。タイムマシンに乗って笑って見届けられる」

なんかフルカワらしかった。らしい、引き出しだ。

「でも、ここでのとっておきは何と言ってもドラえもんなんです。ドラえもんは、ある日タイムマシンに乗って、のび太の引き出しから現れるでしょう?それが、タイムマシンを持った引き出しの一番の良さなの。整理したおかげで、面白い誰かが、引き出しから、いつかきっと現れてくれる。だから、私の恋人の理想像は、絶対ドラえもんなの!」
「なんだ、そりゃ」
「私の中で王子様があるとしたら、それはきっとドラえもんなんですよ」

想像してみた。あの昔テレビで見た懐かしいのび太の部屋を。あのグレーの勉強机を。宿題もやらずに遊びに行き、ジャイアンに泣かされて帰ってきたところに、引き出しから『こんにちは。ぼく、ドラえもんです』。目の前に現れたのは、白馬の王子なんてヤワなシロモノじゃない。青い狸みたいな間抜けないでたちの愛嬌のあるロボットだった。思わず、吹き出した。可笑しすぎて、ツボにはまっていた。なんだかめちゃめちゃ最高のような気がしたのだ。

「お前、すげえーな」
「え?」

フルカワは物事をかなしみで終わらせるという事をしないのだろう。楽しい何かに、笑い話にかえてみせる。そうしないと全てがつまらなくなるのを知っているのだ。発想は漫画かよ?とか、つっこみどころは多々あるが、僕たちの世界は決してドラマなんかじゃない。漫画みたいにコミカルで滑稽で。でも、だからこそ憎めない愛着があるのだ。

「あーぁー、ピザもジンジャーエールも終わっちゃいましたね」

フルカワが無残なピザケースを眺めていた。僕は言ってやった。

「フルカワ、俺がピザおごってやるよ」
「え、本当に?でも、悪いですよ」
「ピザをダメにしたのは俺だし。それに色んな意味で先輩だからな、俺は」
「本当にいいの?わーい、ありがとうございます。…ん?あ、でも」

少し気まずそうに、フルカワがちらっと僕を見た。

「何だよ?」
「…もしかして、やけ食い?」
「よし、わかった。ジンジャーエールは抜きな」
「きゃー、ごめんなさい」

フルカワお気に入りのピザ屋に向かうために、僕は立ち上がった。大丈夫だと思った。振り返った地面の上には、まだ黒い水たまりが広がっていた。ふとあのメロディが流れてきた。

――愛し合おう。誰よりも、水たまりは希望を写している…

「やっぱりミックスピザかな?それとも納豆ピザかな?」

その通りだった。確かにピザみたいな、バカバカしい最高の希望がそこにはあった。


秋の大学祭が終われば、あっという間に次の季節が顔をのぞかせる。

冷たい冬の到来だった。正直今年の冬は、僕には堪えまくった…。大学の欅並木は葉を全て落とし、身一つで凍えるような寒さに必死に耐えていた。でも、冬が堪える原因は決して寒さだけじゃない。問題は街のネオンがやたらと派手になってくることだろう。吉祥寺も例外ではなく、道行く一人者を悲嘆にくれさせるあの十二月の演出は、ある意味脅迫じみていた。

フルカワが泣いて僕に連絡をよこしてきたのは、そんな冬の始まりだった。

電話でフルカワの震える声を聞いたとき、ちょっとした衝撃だった。フルカワはいつも笑っていたから、それが当然のように思ってしまっていた。とにかくいつもピザを食べる公園で待ち合わせることにした。

「…先輩…」

登場したフルカワの顔は、かなりの不細工になっていて、見ていてとても辛かった。とにかくベンチに座らせ、公園の入り口にあるスターバックスで買っといたカフェ・モカのホットを渡してやった。フルカワは黙ってそれを受け取った。どうも猫舌らしく、フーフーと冷ましながら時間をかけてゆっくりと飲んだ。相当ダウンしているようだった。

「寒くないか?平気か?」
「…大丈夫…です…」

その声は泣きすぎたのか、痛々しい程かすれていた。

「…どうしたんだよ?お前が泣いて電話なんて、らしくないぞ?」

フルカワは頑張って笑顔を作ろうとしていたけど、顔をこわばらせただけだった。

「まぁ、いいさ。ゆっくりで。俺は時間だけはいっぱいあるからな」

フルカワが笑えない分、僕が豪快に笑ってやった。フルカワはそれを見て、涙目になってからやっと言った。

「…ふられちゃって」
「そっか」

別に驚かなかった。ここに来るまでの間にある程度予想はしていた。フルカワも特別な引き出しがあるとはいえ、女の子には違いないのだ。僕は深く、深く頷いた。

「そういう時はな、フルカワ」
「…うん」
「ゆっくり引き出しに整理整頓するといいんですよ」

フルカワは小さく笑った。頑張り過ぎない笑顔。復活の兆候。

「それって…」
「うん。俺はその話にけっこう救われたクチだからな」
「…なら、良かったです…」
「でもお前、ドラえもん王子様説の落とし穴を考えてなかっただろう?」

フルカワは変な風に首をひねった。僕は言ってやった。

「ドラえもんは、未来に帰るってこと。最後には、のび太と別れるんだってことをさ」
「………」

フルカワは真っ赤な目を見開いた。

「…それは、気づかなかった。え?だから、今こんなにかなしいの…?」
「バカだなぁ」

フルカワらしかった。らしい、反応だった。だからこそ、今度は僕の番なのだろう、とも思った。

「でも、フルカワ。そいつはホンモノのドラえもんじゃなかったのかもしれないぞ」
「え?」
「それか、もしかしたら、いろんなドラえもんがいるってことなのかもしれないよな」

僕はまだフルカワに話していないことがあった。だから、心をこめて伝えてやることにした。

「俺な、夢を見たんだ。話し聞いて、しばらく経ってから。ドラえもんの夢をさ。変だけど…」
「…先輩がドラえもんの夢…?」
「そうだよ。似合わないかもしれないけど、これは本当の話だ」

フルカワは少し驚いたようだった。僕は構わず続けた。

「夢の中で、俺はのび太だった。あの机でどうしようもなく泣いていたところに、突然引き出しが開いて、ドラえもんが現れたんだ」

物語を聞いている子供のような様子で、フルカワは僕をじっと見つめていた。

「それから…?」
「ドラえもんが、こう言ったんだよ。『出前のピザをお届けに来ました』って。わけがわからなくて、よく見るとそれは着ぐるみでさ。いきなり頭部をスポっと取り外したんだ。そしたら中身はお前、フルカワでさ。『パーティーしましょう、先輩。ピザパーティー!』って、なんだかいつもの調子で笑っててさ。俺は夢の中で、思わず腹を抱えていたね」

フルカワは、きょとんとしていた。当たり前だろう。本当に変な夢だったのだ。

「だから、きっとさ。いろんなドラえもんがいるってことなんじゃないか?毎回違う冒険に連れて行ってくれる愉快なドラえもんたちがさ、お前をこれから待ってるんだよ。だから、フルカワにとって特別な引き出しなんだろう?」

いつの間にかフルカワは、泣いていた。ただ静かに―、本人の自覚なく涙はこぼれていくようだった。気づけば、僕はその頭を優しく撫でていた。

「ごめん。結局は、お前のドラえもん王子様説の落とし穴をきちんと埋めてなんかないな」

すると、フルカワは泣きながら笑った。器用な奴だった。それを見たら、なんだか僕も泣きそうになってしまった。

「…ううん。先輩、すごいなぁ…」
「当たり前だろう。これでも俺、ドラえもんは感動の映画派なんだ」
「なんだ、そりゃ」
「ちなみに中でも一番好きなのは『リトルスターウォーズ』。武田鉄矢が『少年期』歌うところとか、かなりヤバいぞ」
「あ、わかる!グッとくるよね」

二人で笑った。爽快な笑い声をこの季節になって、ようやく耳にできた僕たちだった。今はこんな言葉しか口に出せない。そんな僕はまだまだ子供なのか、それとも素直になれないただの大人なのか…、それはよくわからない。でも、フルカワには今この瞬間、確かに何かが伝わったのだ。彼女の真っ赤な目に映っていた弱々しさは、雪がとけるようにすぅっと消えていった。

「…なんだかお腹、すいてきちゃった」

やっと自分自身を取り戻したフルカワがいた。その明るい声にホッとした。

「よしよし。じゃあ、何か食いに行こう。フルカワ、何が食いたい?」
「う~ん」
「やっぱりピザか?」

僕のありがたいお誘いに、フルカワはなんとも疑わしげな視線を送る。

「あれ~、でも、いいんですか?先輩はピザ、苦手じゃなかったっけ」

鋭い指摘だった。でも、僕も降参はしない。

「別に好きでもないが…」
「が?」
「…嫌いでもない」
「ふぅん」
「…ですけど?」
「あらあら」

彼女はふふっと笑った。僕もニヤリとする。

「よし。じゃあ、いつものピザ屋に行くとするか」
「あ、先輩。ちょっと待って下さい」
「ん?」
「一つ提案があります」

復活したフルカワは、僕の夢の中でドラえもんをしていた以上に楽しげで、なんとも頼もしかった。見ているこっちも愉快になる。さすがは現実。夢なんかに簡単に屈しはしない。負けやしない。僕も、彼女も。

「もう外は寒いし、ピザはどこかあったかな所で食べませんか?」
「え?」
「そうだなぁ。良ければ…」

彼女の突然のひらめきは、この日も絶好調だった。

「先輩のお家で、ピザパーティーを!」


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=影響を受けた作品のご紹介=
ここでは上の拙い物語がたぶん影響を受けたんじゃないかと思われる作品をご紹介します。 お時間や興味のある方はどうぞ~。


★ くるり『ワンダーフォーゲル』 × くるり『ばらの花』 ★

ある日、大好きな吉祥寺を舞台に物語を書きたい思いました。そのためにまず吉祥寺のテーマソングを見つけないと!友人と夜通し遊びほうけて、朝になって白んでいく吉祥寺の街を歩いていると、ふと彼らの音楽が聞こえました。歌のように、失恋から立ち直るまでの話を書こうかな。…そんなふうに、生まれた物語です。

フルカワの名前はくるり『ばらの花』でコーラスを担当した、私の大好きなスーパーカーのフルカワミキさん。ちなみにピザ屋は本当にあります。納豆ピザがおススメ!

TONY's PIZZA
http://tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13005912/

くるり『ワンダーフォーゲル』
http://www.youtube.com/watch?v=I_PndY44ROg
くるり『ばらの花』
http://www.youtube.com/watch?v=fpjIsylnvU8
くるり『ばらの花・ワンダーフォーゲル・ロックンロール』
http://www.youtube.com/watch?v=Ic3yrHXiBYQ

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